ロードス島
アンボワーズ門

 ロードスはドデカネソス島々のなかで最も大きく、一番長いところで南北に77キロ、東西に35.5キロ、1398平方キロの広さを持つ。土地は肥沃で、気候にも恵まれている。

 古代にはアイトレア、オフィウッサ、テルキニアと呼ばれていた。ロードスという名前の語源は明らかではないが、ギリシャ語のロドン(バラ)から来たわけではなさそうである。古代の詩人ピンダロスは、太陽の神ヘリオスがニンフ、ロダに恋をして生まれたのがこの島であると詠っている

 ロードス島には、遅くとも新石器時代から居住の跡があり(イアリソス、トリアダ)、青銅器時代にはミノア文化、継いでミケーネ文化の影響を受けている。ホメロスは『イリアス』のなかで、ロードスの三つの都市、リンドス、イアリソス、カメイロスに言及している(II, 656)。

 ペルシャ戦争初めの前490年、ロードスはペルシャ帝国の支配下に入り、戦争の終わりにはデロス同盟に加盟して、アテネの覇権下に入った。しかし、ペロポネソス戦争の末期である前411年には、スパルタに組して反乱を起こしている。前408年、前記の三都市が力をあわせて新都市ロードスを創建し、自らの市民を植民させている。ストラボンは、その都市計画を賞賛している。

 ロードス市は最初寡頭制を取っていたが、後に民主制へと移行し、前394年にはアテネと協力して、クニドスの戦いでスパルタ人を破っている。前379年には第二次アテネ連盟に加入するが、前357年、カリアの王マウソレオスの勧めで、アテネに反乱を起こし、カリアの庇護下に入った。

 アレクサンダー大王がペルシャ帝国に攻め込んでティロスを包囲した時には、ロードスはペルシャに味方して派兵している。ディアドコイ戦争では、ロードスはエジプトのプトレマイオス一世に味方し、前305年にロードス市がデメトリオス・ポリオルケテスに包囲された時には、プトレマイオスが援軍を送り、デメトリオスは包囲を説いた。このため、ロードス市民は、プトレマイオスに「救済者(ソテル)」という名誉称号を贈った。

 ヘレニズム時代のロードスは、イタリア、ギリシャ、アジア、アフリカを結ぶ交易港として繁栄し、世界で始めての海洋法の法典を編纂した。この法は、アウグストゥス、ユスティニアノスがモデルとしたため、ローマ法の伝統として現在まで継承されている。

 弁論家アエスキネス(389-314BC)がロードスに確立した修辞学校はヘレニズム時代を通じて繁栄し、カトー、キケロ、カエサル、ルクレティウスといった有名なローマ人がここで学んでいる。アレクサンドリア出身の修辞学者で文人のアポロニオス(前二世紀末から一世紀初めに活躍)もロードスで教え、ロードス市民は彼に「ロディオス」という添え名を贈った。

 前二世紀、ロードスはローマと同盟を組んだ。ローマがマケドニアのフィリッポス五世と戦った際にローマに味方したため、キュクラデス諸島を贈られ、前188年アンティオコス朝シリアとの戦いでローマに味方した際には、南カリアを贈られた。ペルセウスとの戦いではローマに味方しなかったため、小アジアの所有地を奪われたが、ミトリダテス戦争ではローマに味方したため、スッラはこれをロードスに返還した。ローマ内戦の際にはユリウス・カエサルに味方したため、前43年ロードスはクラッススに略奪され、その艦隊は破壊されたか、没収された。

 ヘレニズム時代を通じて、ロードスは、ギリシャ都市としてはおそらく唯一独立を守り、アウグストゥスは、ロードスに「同盟市」の称号を与えている。しかし、ウェスパシアヌス帝の時代にはローマ帝国に組み込まれた。聖パウロは一度ロードスを訪れており(『使徒行伝』xxi, 1)、キリスト教はかなり早いうちに広まったようである。

 ディオクレティアヌスの時代、ロードスは属州首都となり、四世紀、ロードス主教は周辺諸島を統括する大主教となった。654年以降、ロードスはしばしばサラセン人に略奪され、一時は占領されている。1082年、アレクサンドロス・コムネノスはヴェネツィア人に、ロードスにおけるいくつかの特権を与えている。第四次十字軍の際には、ロードス島の総督レオ・ガヴァラスがロードス島の独立を宣言した。1274年には、ロードス大主教がリオン教会会議に出席している。後に島はジェノヴァ人の支配下に入ったが、1306年に避難してきたエルサレムのヨハネ騎士団が、まもなく島を支配するようになった。

 後にマルタ騎士団となる、エルサレムの聖ヨハネ騎士団は、ロードス騎士団とも呼ばれ、もともとはエルサレムの聖墳墓教会に向かう巡礼を保護するために創立された病院騎士団の一つで、1048年頃に、アマルフィの商人たちがエルサレムに創立した病院を管理していた。1191年、サラディンがエルサレムを奪うと、騎士団はアクレに拠点を移す。1291年にはアクレも追われ、キプロスに移動したが、1306年にはロードスにやって来て、二年に渡る包囲戦の結果、1309年に力ずくでロードスを手に入れた。

 ロードスを手に入れた聖ヨハネ騎士団は、島の貿易を守るため艦隊を設立した。教皇クレメンテ五世は、1312年に廃絶されたテンプル騎士団の所領の一部をヨハネ騎士団に与えている。騎士団は二百年以上島を守ったが、1522年、オスマントルコのスレイマン一世にロードス市を包囲され、半年に及ぶ激闘の末、市を奪われ、1523年1月1日、騎士団長ヴィリエ・ド・リル・アダムは、180人の生き残りを連れて島を後にし、クレタのカンディア(ヘラクレイオン、イラクリオ)に渡った後、1530年にはマルタ島に移動した。

 400年間オスマントルコの支配を受けた後、1912年、イタリアが島を奪取する。第二次世界大戦の終盤には、ナチス・ドイツがイタリアから島の支配を引き継いたが、1945年イギリス軍とギリシャ軍によって島は解放され、1947年には正式にギリシャの一部となった。

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