ナクソス島

Naxos Top

<場所> ギリシャ キュクラデス(キクラデス)諸島

 ナクソスはキュクラデス諸島最大の島で、上に写っているアポロン神殿の扉で観光客にもおなじみ。

 ナクソス島は南北30km、東西19kmあり、内陸部は山になっている。一番高いのは、標高1004mのゼウス(ゼアス)山で、キュクラデス諸島の山としては最も高い。水の乏しいキュクラデスの中では比較的水に恵まれており、オリーブ、オレンジ、レモン、イチジクなどを産出する。

 古代には、大理石の産出地として、パロス島に並んで有名だった。

 古代、中世を通じで重要な場所だったため、古代遺跡にも、ビザンツ時代の遺跡にも富んでいる。

 ギリシャ神話では、テセウスがアリアドネを置き去りにした島として有名。クレタ島をミノス王が治めていた時代、そこには半牛半人の怪物ミノタウロスがおり、毎年50人の若い男女を生贄と要求していた。アテネの英雄テセウスは、生贄にされる男女を救うためクレタを訪れ、そこでミノス王の娘アリアドネの手を借りて、ミノタウロスを殺すことに成功する。テセウスはアリアドネをアテネに連れ帰ることを約束していたが、この約束を破って、途中のナクソス島に彼女を置き去りにした。リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』はこの神話を題材に取っている。

 ナクソスには紀元前2000年代から人間の居住の跡があり、キュクラデス文明が栄えた場所。現ナクソス市に近いグロッタという場所でもこの時代の遺跡が見つかっているが、集落の多くは島の東部に集中していた。紀元前1000年代、クレタのミノア文明やミュケーネ文明が栄えるころには、キュクラデス文明は衰退するが、この時期ナクソスの人口は島の北西部に移動し、グロッタには、ミュケーネ文明の影響を受けた巨大な都市が造られた。また、ツィカラリオという場所では、紀元前1000年ごろに造られたと見られる巨大な墳墓が発見されている。

猫 ヘロドトスによれば、ナクソス人は、もともとアテナイから来たイオニア人。前七世紀までには、有力貴族が寡頭政治を敷くようになり、前六世紀にはリュグダミスという僭主が現れる。ナクソスは、同盟関係にあったカルキス市民が西方に殖民する際船を貸し、シチリアに到着した植民者たちはそこにナクソス市を創建したと伝えられている。前七世紀から六世紀初めにかけては、アポロン崇拝の中心地デロスを支配下に入れていたらしく、この時代に属する、デロスの重要な建造物や奉献物はほとんどナクソスのものである。大理石の重要な産地であったナクソスは、芸術の中心地としても栄え、ナクソス産の彫刻が各地で発見されている。もっとも有名なものの一つは、デロス島で発見されたアルテミス像(前七世紀半ば)で、現在はアテネの国立考古学博物館に所蔵されている。また、ナクソス島のアポロナスという場所には、造りかけの巨大なクーロス像を見ることができる。ナクソス島のギルラスやイリアで発見された神殿跡は、この時代のものである。

 アテネの僭主ペイシストラトスから支持を受けて、前540年ごろから島を支配した僭主リュグダミスは、前524年にスパルタによってその座を追われた。その後しばらく寡頭政治が敷かれたが、やがて民主制に移行した。前504年にはミレトス僭主アリスタゴラス軍から攻撃を受けるが、これを切り抜けた。

 ペルシャ戦争初頭の前490年、ナクソス島はペルシャ人に攻撃されて敗北し、略奪をうける。しかし、サラミスの海戦では、最初ペルシャ側で戦っていたナクソス人がアテネ側に寝返り、ギリシャの勝利に貢献した。プラタイアの戦いでもギリシャ側で戦ったことが、デルフォイで発見された鼎やオリュンピアのゼウス像の台座に刻まれた碑文から知られている。しかし、ナクソスは、ペルシャによる破壊から十分に回復することができなかったらしく、前471年にはアテナイの支配下に入る。前376年、ナクソスの海戦では、アテナイ軍がラケダイモン軍に勝利した。

 ヘレニズム時代には、最初はプトレマイオス朝エジプトの、ついでマケドニア、ロードスの支配下に入った。ローマがギリシャを支配するようになっても、ナクソスはロードスの下に置かれ、キリスト教時代にも、ナクソスの教会は、ロードス司教区の一部であった。

 ビザンツ時代に島が繁栄したらしきことは、五百にのぼる教会や修道院から推測される。この時代には島の繁栄の中心が、内陸部のトライアイアからアパノ・カストロ、サングリからカストロ・タパリルー周辺へ移動したと考えられている。

ポルターラ 1207年、マルコ・サヌーディがナクソスをヴェネツィア支配下の大公領とする。しかし、サヌーディは、ラテン王国の国王、フランダースのアンリの側に鞍替えし、その褒章として、諸島大公とドデカネソス領主の称号を手にする。キュクラデス諸島の大部分で、サヌーディ家とそれに続くクリスピ家の支配は約360年間続いた。1566年(1564年?)にはオスマントルコの支配下に入ったが、島に移住してきたトルコ人の数は少なく、事実上ヴェネチア人の領主たちが支配を続けて、彼らがトルコに税を支払うという状態が続いたようだ。この時代にエーゲ海を荒らした、ギリシャ人や西ヨーロッパ人の海賊は、トルコ人に特に容赦がなかったことも、トルコ人がナクソスへの移住をためらった理由の一つであった。トルコ人の存在感が希薄であったためか、島民はしばしば反乱を起こし、1563年、1595年、1670年、1681年のものが知られている。宗教も自由で、ファネロメニ修道院、ナクソス市の司教座教会アギオス・クルソストモス、アギア・キリアキ教会、アギオス・ギオルゴス神学校、サングリのアギオス・エレフテリオス、またナクソス市カストロの聖ウルスラ会学校は、すべてこの時代のものである。1770年から1774年には、一時ロシアの支配下に入ったこともある。

 十八世紀後半の人マルカキス・ポリティスは『村落共同体』を組織して封建的な支配を敷くヴェネツィア人の領主と戦った。彼は、カルキとフィロティの領主、ドリュマリアのヴァロツィス家に対抗するため、アカディミに要塞を建設した。ドリュマリアの小作農たちは、ここを拠点にヴァロツィス家と戦った。しかし、ポリティスは、最後には捕まって、ミティリーニ島に追放され、トルコ人パシャクングヒ・フセインの命令で1802年3月25日に殺害された。

 しかし、ポリティスの息子ミハラキス・マルコポリティスは、父の後を継いで『農村共同体』の指導者としてヴェネツィア人やトルコ人との闘争を続けた。1821年にギリシャ独立戦争が始まると、マルコポリティスもこの闘争に加わった。ナクソスは同年5月6日にはすでに独立を宣言している。マルコポリティスはその後、独立ギリシャの国会議員となった。

参考文献



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