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スパルタ
Leonidas
 古代のスパルタは、アテネと覇権を争った有力都市国家だった。現在のスパルティ市はラコニア県の首都であるが、事実上1834年に創建された新しい都市。
 上の写真に写っているのは、スパルタ市内に立つ、前480年テルモピレーで戦死したスパルタ王レオニダス像(現代の作品)。

<神話と歴史>
 伝承によれば、この場所を最初に統治した王はレレクスという人物。レレクスの孫であるエウロタスはこの地域を干拓した(彼の名前はスパルタを流れる川の名前となって残っている)。エウロタスの娘スパルテは、ゼウスとタイゲテの息子ラケダイモンと結婚した。メネラオス王の妃となるヘレナや、アガメムノンの妃クリュテムネストラは彼らの曾孫にあたる。
Statue of Lykourgos in Sparta
スパルタに立つリュクルゴスの像(現代の作品)
リュクルゴスは紀元前八世紀の前半に現れたとされる、スパルタの伝説的な立法者
 考古学的知見によれば、スパルタに人が住み始めたのは紀元前第三千年紀のこと。ミケーネ時代にはいくつかの比較的大きな集落が存在したらしく、スパルタだけではなく、ヴァフィオ、パレオピルギ、アミクレス、アントホリなどから遺構や遺物が見つかっている。いわゆるドーリア人の侵入以降(従って、ミケーネ文明没落以降)である、紀元前第一千年紀の初め、ピタネ、リムネス、メソア、キノスラという四つの村が徐々に合体して、スパルタという一つの都市国家を形成するようになった。その後、スパルタはペロポネソス半島で勢力を拡張し続け、ペルシャ戦争、ペロポネソス戦争を経て、前371年にレウクトラの戦いでテーバイ(テーベ)に敗れるまで繁栄は続いた。前三世紀の後半、スパルタ王アゲスとクレオメネスは農民に土地を再分配する改革を実施し、勢力を取り戻すかに見えたが、前222年、セラシアの戦いでマケドニアのアンティゴノス三世ドソンとの戦いに敗れ、クレオメネスはエジプトに亡命を強いられた。
 ローマの将軍ティトゥス・クイントゥス・フラミニヌスはラコニアに攻め込み、スパルタを略奪して、その支配域を縮小、かつてスパルタの支配下にあった都市をラケダイモン同盟として組織した。前一世紀の終わりアウグストゥスはラケダイモン同盟を再編成し「自由ラコニア人同盟」とした。皇帝ハドリアヌスはスパルタを二度訪問した。
 267年にはヘルリ人、そして396年アラリックによって略奪を受けた。その後、以前よりも狭いエリアを囲った市壁が築かれた。しかし、都市生活はその後も継続し、道路、水道設備、浴場などの建設は続き、また古代の神殿は教会へと転用されていった。アラブ人やスラブ人が侵略してきた7世紀から8世紀にかけての考古学的遺物は少なく、当時のスパルタがどのような状況にあったのか詳しいことは分かっていない。この頃、住民の一部は、マニ半島の方に移住したと考えられている。
 十世紀から十二世紀にかけて、スパルタでは建築活動が再開し、居住地域がアクロポリスの南側と西側に広がったことが考古学的に裏付けられている。1082年には、ラケダイモニア(ビザンツ時代スパルタはこの名で呼ばれた)は首都大主教区に昇格しており、この都市がラコニアの中心であったことがガ分かる。
 十三世紀の後半、十字軍が姿を現すと、スパルタの人々はより防衛が容易なスパルタへと移住。1248年にミストラスがモレア専制公の居住地となると、ラケダイモニアは完全に重要性を失ってしまった。1834年、新生ギリシャ政府はスパルタを再建し、ここをラコニアの首都と定めた。

参考文献

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