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ミストラス
Mystras
 「ビザンツのポンペイ」とあだ名される、保存状態が極めて良いビザンツ時代の遺跡。UNESCOの世界遺産として登録されている。

Gate to Mystras
ミストラス遺跡の入り口の一つ
 入場料は大人5ユーロ(2010年1月現在)。入り口は遺跡の麓と中腹の二箇所にある。スパルティ(古代のスパルタ)の町からは約6キロ離れている。ミストラ遺跡の手前には現代の小さな村があり、レストランやホテルも数軒ある。

<歴史>
 1249年、アカイア君主国の支配者だったギヨーム・ド・ヴィルアルドゥアン二世は、この集落をスラヴ人の攻撃から守るため、要塞を築いた。この後ギヨームは1259年のペラゴニアの戦いで、ミハイル・パレオロゴスに敗れて捕虜となり、三年間の捕囚生活の後、ミストラス、モネンヴァシア、マイナ(マニ)をミハイルに引き渡すことで解放された。ビザンツ領だったラケダイモニア(スパルタ)の住民は、防衛の容易なミストラに移住し、人口が増加した。聖ディミトリオス主教座教会(1265)、ブロントキオン修道院と聖テオドリ教会、オディギトリア(アフェンディコ)教会の建設はこの時代に遡る。
Mystras
 1349年からは、ビザンツ帝国のデスポティス(日本語では専制侯、または専制公と訳されるビザンツ帝国の官職で、普通は皇帝の息子や兄弟が就任した)の居住地となり、モレア専制公領と呼ばれるビザンツ支配下のペロポネソス半島の首都となった。第一代のモレア専制公は、皇帝ヨハネス・カンタクゼノス六世の次男マヌエル・カンタクゼノス(1349-80)。1443年から48年に専制公だったパレオロゴス家のコンスタンティノス・ドラガツェス(またはドラガセス)は、ビザンツ皇帝に就任し、帝国最後の皇帝として名を残すことになった。専制公領時代のミストラスには2万人ほどの人が住んでいたと概算されている。ビザンツ時代末期の高名な哲学者ゲミストス・プレトンは1400年から42年までミストラスに住み、後にカトリック教会の枢機卿になったことでも有名な聖職者で学者のベッサリオンは、1423年プレトンの下で学んだ。
Mystras fountain
 1460年、ミストラスはオスマン・トルコの支配下に移り、パシャの居住地となった。1464年、ヴェネツィア軍がミストラスを攻撃、攻略には失敗するが、リーミニの君主シジスモンド・マラテスタはホーラ(丘の上の部分にある町)に侵入することに成功、プレトンの遺骨を持ち去り、自らの都市にあるテンピオ・マラテスティアーノに安置した。1687年にはフランチェスコ・モロシーニ率いるヴェネツィア軍が占拠、1715年まではヴェネツィアが支配した。ヴェネツィア人の下では絹の生産地として栄え、人口は4万2千人にも登った。再びオスマン・トルコの支配下に戻ると町は衰退し、戦火で荒廃した。ギリシャが独立すると、1834年、スパルタ(スパルティ)が都市として再建され、ミストラスの重要性はさらに減少、1952年には、遺跡の研究と保存のため、残っていた30家族もすべて退去させられた。

参考文献

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