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コス島の歴史


 歴史を通じて、コスはいくつもの名称で呼ばれてきた。ツキュディデスとストラボンは、コス・メロピス(Kos Meropis)、プリニウスはニュンファエア(Nymphaea)、ビザンツの地理学者ステファノスはカリス(Karis)と呼んでいる。中世にはランゴ(Lango)、さらには、スタンキョ(Stanchio)、トルコ時代にはイスタンキョイ(Istanköy)と呼ばれた。最後の二つは、ギリシャ語のeis tin koo(「コス島で」)が訛ったものである。

 最も古い居住の跡は、新石器時代のもので、ケファロス近くのアスプリペトラ洞窟で発見されている。ホメロス時代(前八〜七世紀)にはカリア人と、エピダウロスのドーリア人が入植して来た。

 ペルシャ戦争の時代には、カリアの女王アルテミシアの勢力下にあったためペルシャ側について戦い、敗北した。

 ペロポネソス戦争の際には、ラケダイモン人によって当時の首都アスティパレア(島の南西部にあったらしいが、未確認)を破壊された。新しい首都コス(現在のコス市と同じ場所)は、集住(シノイキスモス)の結果、前366年に創建され、通商港として、またアスクレピオスの聖域への玄関口として繁栄した。ワインと絹製の織物の生産で有名で、ローマ人の間では、「コスのドレス(Coae vestes)」と呼ばれる、透けるほど薄い絹の衣が知られていた。

 前336年、コスはアレクサンドロス大王によって占領され、彼が死んだ323年にはエジプトを本拠地とするプトレマイオスの勢力下に入った。プトレマイオス二世フィラデルフォスはコス島で生まれている。

 やがてローマと同盟し、アカイア属州に組み込まれた。

 五、六世紀にも島は繁栄を続け、当時の教会の跡が島には多く残っている。

 十一世紀にはサラセン人(イスラム教徒)の襲撃を受ける。

 十字軍時代、ジェノヴァの支配下に入り、1304年にはザッカリア家の封土となる。しかし、その二年後には聖ヨハネ騎士団に譲渡され、それから十年近くたった1315年から騎士団が島を支配した。1457年と1477年にはオスマントルコから攻撃を受け、1522年には、ロードスと共に陥落した。

 オスマントルコ支配下のアテネで圧制を敷いたハジ・アリ・ハゼキはコス島に追放されて、1795年に死刑になっている。

 1912年、イタリアがコス島をトルコから奪う。


参考文献


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