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ケファロニアの歴史


ケファロニアの名前の由来にはいくつかの説がある。神話によれば、妻を狩の獲物と取り違えて殺害してしまったケファロスという人物がこの島に流浪してきたことに由来する。他の説では、Kefallenoiと呼ばれる人々がこの島に住んでいたからであるとか、イオニア海の七島(エプタニシア)の中で一番大きいので、「頭kefalos」と見なされたからだという。

石器時代には既に、アルゴストリ、ハリオタタ、サミ、フィスカルド、スカラなど各地に人が住んでおり、また、ペロポネソス半島の沿岸を初めとする各地と交流があったことが石器その他の発掘物から分かっている。

トロイア戦争の際には、イタカの王オディッセウスに組したと伝えられている(ホメロスの『オディッセウス』にあるイタカが現在のイタカ島と同一であるかについては議論があり、最近英国の新聞Times紙に、ケファロニア島の一部なのではないかという説が提示された)。考古学者の研究によれば、島はKrane, Same, Pronnoi, Paleの四つの王国に分かれていたらしい。これらの王国は前五世紀頃に最盛期を迎えた。ペルシャ戦争では、パレの市民200人がプラタイアで戦ったとヘロドトスが伝えている。ペロポネソス戦争では、最初アテネに、次いでスパルタに組し、アテネ将軍イフィクラテスに敗北してからは、アテネの同盟国となった。

前50年ごろ、ケファロニアはローマの支配下に入る。Same(現サミ)は最後まで抵抗したが、やがて敗北し、破壊された。ケファロニアはアカイア属州の一部となった。ハドリアヌス帝はケファロニアをアテネ市民に与えた。

ビザンツ時代には、テマ「ロンゴバルディア」の一部となり、次いで、キティラとザンテを除くエプタニシアの五島が形成するテマ「ケファロニア」の一部となった。十一世紀から十二世紀にかけては、南イタリアを基地としたノルマン人からの襲撃を受け、ロバート・ジスカールは遠征中にケファロニア(フィスカルド)で死去した。1099年にはピサに、1185年にはブリンディジのマルガリトーネ(もしくはマルガリートとも呼ばれ、ザンテ出身の海賊だったが、シチリア王ウィリアム二世に使え、後にマルタ伯となった)に占領された。マルガリトーネの跡は、その娘と結婚した、オルシーニ家の一員で、プーリアのモノポリ出身である、マイオ(もしくはマッテオ)伯が継ぎ(1194年)、名目上シチリア王の宗主権下に入った。その後、1323年にはトッキ家に占領された。

第一次露土戦争 (1463-1479)の後、ケファロニアは、イタカ、レフカダと共にトルコの支配下に入った。その後ヴェネツィア人の支配に入った後、1484年に再びトルコの支配下に戻った。しかし、1500年には再びヴェネツィア人が取り戻し、1797年までヴェネツィア支配下に留まった。

1797年にヴェネツィアの支配域が解体されると、1798年まではフランスの支配下に入ったが、同年ロシアとトルコが介入、1800年から1807年までは、スルタンの主権下にありながらも、他のイオニア諸島と共に「イオニア国家」もしくは「エプタニシア共和国」を形成することになった。1807年にはフランスがイオニア諸島を奪い返し、1809年から1864年まではイギリスの支配下にあった。 何度かの反乱を経て、ついにイギリスはイオニア諸島をギリシャ王国に移譲することを認め、1864年5月21日、ケファロニアはギリシャの一部となった。

第二次世界大戦中、最初イタリアに占領されたが、1943年にドイツ軍が力ずくでこれを奪取した。降服したイタリア兵3,000人はヒットラー直々の命令で処刑された。1945年にドイツが降服して、ケファロニアは再びギリシャに戻った。ルイ・ド・ベルニエール作で、2001年に映画化された「コレッリ大佐のマンドリン」は、イタリア軍占領下のケファロニアを舞台にしている。

1953年8月、ケファロニアは激しい地震に見舞われ、ほとんどの町や村で建物が崩壊した(フィスカルドだけがこれを逃れた)。ケファロニアの再建は、島民の努力の賜物である。


参考文献


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