マラトンは、言うまでもなく、第一次ペルシャ戦争でアテネとプラタイアの連合軍がペルシャ軍を打ち破った場所であり、また、マラソンの語源となった場所でもある。
マラソンの遺跡は広い地域に分散しているので、車なしですべてを訪れるのは難しいし、いくつかの遺跡は一般公開されていない。
歴史家ヘロドトスは、マラトンの戦いで6400人のペルシャ人が死に、それに対しアテネ人の死者は192人に過ぎなかったとしている。上に写っているのはマラトンで戦死したアテネ人が葬られた墓。建造物や碑文があるわけではないので、遺跡というよりは公園のように見える(丘の上に登ることは禁止されている)。
丘の高さは9メートル、直径は50メートルある。
参照文献
- Christopher Mee & Antony Spawforth, Greece. An Oxford Archaeological Guide. Oxford/ OUP, 2001, p. 114-119.
2011年3月中旬にマラソンを訪れた時に見かけた花の数々。
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