日本における正教会の確立と聖ニコライ・カザツキン


序言

 日本の正教会の正式名称は「日本ハリストス正教会」といい、1970年以降は独立自治権を持った独立教会である。日本の正教会はロシア正教会の一部と思っている人も少なくないだろうが、それは誤解である。
 世界にある独立教会は、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレム、ロシア、グルジア、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ポーランド、チェコとスロヴァキア、キプロス、フィンランド、アメリカ、日本、ウクライナなので、日本正教会はアジアでは唯一の独立教会だということになる。

キリスト教伝来

 日本に初めてキリスト教がもたらされたのは十六世紀のことで、イエズス会士フランシスコ・ザヴィエルが宣教活動を行ったことによる。しかしその後、徳川政府によってキリスト教の信仰と布教は禁止され、禁令に逆らう者には死罪が科された。にもかかわらず、キリスト教徒は隠れて信仰を守り、その伝統は現在も続いている。

正教の伝来

 1858年、江戸条約が締結されたことで、ロシアは北海道の函館に総領事館を設置することが決まる。日本における最初の聖堂は1860年10月に完成した総領事館付属の礼拝堂である。
 総領事館付属の聖職者として最初に派遣されてきたのは司祭(archipriest)のVasily Makhov。彼は、1859年6月に函館に到着したが、持病の心臓病が悪化したため、翌年の7月にはロシアに帰国してしまう。その代わりとして選ばれたのが、当時まだ神学校生であったニコライであった。

ニコライ・カザツキンの生涯と業績

1) ロシア時代

 聖ニコライは、1836年、Ivan Dmitrevich KasatkinとしてSmolensk (Egorov Beryoza, Belyi district)に生まれた。父親のディミトリ(Dimitry)は地方の教会の輔祭であった。イヴァンの住む村には学校がなかったため、Tatyevoにある教会付属の初等学校に通った。その後、スモレンスク神学校へと進んだ。スモレンスク神学校時代に、教師であったIvan Solovyovから北京での正教布教活動の話を聞き、彼は清朝中国での布教を志すようになった。
 スモレンスクの新学校を優秀な成績で卒業したイヴァンは、当時のロシアで最も名声の高かった四つの神学アカデミーの一つ、サンクト・ペテルブルク神学アカデミーに進んだ。
 1860年の初め、Holy Synodは、函館から司祭の派遣を求める書簡を受け取り、ロシアの四つの新学校に、候補者を募る書簡を送る。サンクト・ペテルブルクの新学校でこれを見たイヴァンはすぐに応募した。候補者は多くいたものの、修道聖職者になる意志を示したのがイヴァンだけだった。イシドル・ニコルスキ(Isidor Nikolsky)サンクト・ペテルブルク総主教は、イヴァンを強く押したため、Holy Synodはこれを受け入れたらしい。
 イヴァンはアカデミーでの学業を終えると、剃髪して、ニコライという名前になる。その一週間後にはhieromonkに叙階された。7月末に一度実家に帰った後、ニコライはシベリア経由で東に向かう。イルクーツクには夏の終わり頃到着、バイカル湖をフェリーで渡って、Chita, Sretenskを通過した後、シルカ川(アムール川の始原)から船に乗るが、アムール川沿いのニコライェフスクに到着した所で川が凍結して進めなくなったため旅を中断した。

2) 函館時代

 ニコライが函館に到着するのは、実に出発から一年を経過した1861年7月2日である。その年の9月、カムチャッカとアラスカの大主教(hierarch of the Diocese of Kamchatka and Alaska, 後に聖人) Innokenty Popov-Veniaminov (1797-1879)がたまたま函館に滞在した。インノケンティは、領事館の図書館で西欧の書物を読んでいたニコライを叱り、日本の言葉、文化、歴史を学んで布教を進め、聖書を正確に翻訳するよう叱咤したという。
 ニコライは、インノケンティの言いつけを守り、日本語の習得に努力する。しかし、当時の徳川政府はキリスト教の布教を禁じていたため、布教活動は困難だった。1866年、領事ゴシュケヴィッチの後任として赴任してきたEvgeny Byutsovは正教の布教に熱心な人物で、1868年4月、ニコライは彼の部屋で初めて日本人三人に洗礼を授けた。同じ年の末、ニコライはHoly Synodに対し、日本における布教活動を準備するためロシアに一時帰国させて欲しいと申し出る。
 1868年春の明治維新で、徳川政府は崩壊し、政権は新たな帝国政府に移るが、函館では最後まで戦闘が続き、情勢は不安定だった。五稜郭の籠城戦は1869年の春まで続いた。その間Holy Synodに帰国申請を認められたニコライは1869年2月、ロシアに向けた船に乗る。
 ニコライはサンクト・ペテルブルクの聖アレクサンドル・ネフスキー・ラヴラに滞在して、日本における布教活動への支持を集める。ニコライがロシアに到着した頃、モスクワ大主教に叙階されていたインノケンティは既にOrthodox Missionary Societyの設立に向けた働きかけを始めており、これは、皇帝アレクサンドル二世の許可を得た後、1870年1月に正式に発足した。Orthodox Mission for Japanは、同じ年の4月にHoly Synodから認可を受ける。これとともに、ニコライはhieromonkからarchimandriteへと昇格した。ニコライは、布教活動を共に行う聖職者を求めてロシアを旅し、キエフでAnatoly Tikhaiの約束を取り付ける。
 日本に帰るニコライは、シベリア経由ではなく、スエズ運河経由での旅を選び、エルサレムに巡礼した後、マラッカ海峡を通って日本に向かう。1871年3月には上海に到着し、同じ月の末には函館に戻って来た。彼は、自分が布教活動を行う間、領事館付属司祭の任務を勤める若いhieromonkを連れて来ていたが、この人物は不適任であったため、三ヶ月ほどでロシアに戻ってしまう。このため、ニコライは函館でTikhaiの到着を待つしかなかった。
 新政府が函館に派遣してきた二代目開拓使の黒田清隆(後の首相)は、キリスト教に反対的で、キリスト教布教を抑圧した。迫害を恐れたニコライは、新改宗者や洗礼志願者(カテキュメン)に函館を離れることを勧め、そのうちの何人かは本州に渡って布教活動を行い、大きな成功を収めた。

3) 東京時代

 1872年初め、hieromonk Anatolyが函館に到着したため、ニコライは函館の礼拝堂を彼に任せて、東京に布教本部を設置した。1916年になって、函館にはキリスト教会堂が奉献された。
 ニコライは東京の築地に布教の仮本部を設置した。これは、当時外国人が住むことを奨励されていた銀座に近い場所という選択であった。彼は昼間はロシア語を教え、夜は正教の教義を教えた。同じ頃、皇帝アレクサンデル二世は、東京にロシア政府代表部(まだ大使館ではなかった)を設置し、函館のEvgeny Byutsov総領事は、東京に転任になった。
 同じ年の半ば、ニコライは神田駿河台に、本部設置に適した土地を見つけ、Byutsovの仲介で、長期貸借契約を結んだ。新布教本部は、KamchatkaとEastern Siberia大主教の管轄下で活動した。ニコライは、語学学校と布教活動を新本部に移したが、日本政府のキリスト教に対する態度ははっきりしないままだったので、洗礼は秘密裏におこなわれた。同じ年、東京を訪れたアレクセイ・ロマノフ大公(皇帝アレクサンデル二世の第二子)は、布教本部に多額の寄付をして、この資金で本部の建物と事務所が建築された。さらに、ロシアのPutyatin伯が集めた寄付金で、聖十字礼拝堂(Chapel of the Holy Cross)。
 1875年には、初めて日本人の聖職者が叙階される。VladivostokとMaritime Siberiaのパヴェル主教がパヴェル・サワベを司祭に、ヨアン・サカイを輔祭とした。1878年、さらに五人の日本人司祭が叙階された。
 1879年、ニコライはHoly Synodから、主教昇進の通知を受けたため、北アメリカ経由でサンクト・ペテルブルクへと向かう。ニコライは43歳だった。8月13日に横浜を出港したニコライは、サン・フランシスコに上陸、Transcontinental Railroadでニューヨークまで行き、9月12日には既にサンクト・ペテルブルクに到着している。
 1880年、ニコライは、St. Alexander Nevsky Lavraで、大主教イシドルから「東京と全日本主教Bishop of Tokyo and all Japan」として叙階を受ける。彼は、日本での布教の成功の故に故国で大きな名声を獲得していた。8月15日、ニコライはサンクト・ペテルスブルグを後にし、コンスタンティノポリス、スエズ運河、インド洋、東シナ海(East China Sea)を経て、11月横浜に到着した。
 ニコライが主教となったことで、彼自身が聖職者の叙階をできるようになった。1881年から1912年の間に、ニコライは44人の日本人司祭を叙階している。1882年、ニコライは布教代表部Missionの出版局を設立し、聖典の翻訳作業によりいっそう熱心に取り組んだ。この事業では、中国の古典と日本文学に通じたパヴェル・ナカイが、ニコライの右腕となった。
 1880年代、布教代表部の最大の懸案は聖復活大聖堂の建設だった。アレクサンドル三世、Holy Synod、諸修道会、貴族、一般からの寄付が資金源となった。1884年に建築が始まったこの協会は、ビザンツ風の丸天井と、大きな鐘楼のついた建物で、建築監督はイギリス人のジョシュア・コンダー(Josiah Conder)だった。大聖堂は、1891年3月8日に奉献された。
 1894年から95年の日中戦争の結果、満州と朝鮮半島を巡り、日本とロシアの競争は激化する。そして、1904年にはついに日露戦争が勃発する。ニコライは日本を去ることを勧められるが、これを退け、公的な活動を停止しても日本に残る決意をする。日露戦争中、ニコライ以下、正教会は73000人に登るロシア人捕虜の慰問活動、人道的援助に取り組んだ。1905年、講和条約が結ばれると、ニコライは戦時中の人道活動の故に、ニコライ二世から、アレクサンドル・ネフスキー勲章を授与された。そして、1906年、彼は大主教の位に昇進した。
 1907年には、京都にも司教座が置かれた。京都の最初の主教は、Andronik Nikolskyであったが、彼は数ヶ月でロシアに帰ってしまい、1908年、Sergy Tikhomirovがその跡を継いだ。彼は、1912年にニコライが死去するまで、教徒主教の座にあった。
 晩年に向けてニコライの名声はさらに増し、ニコライ二世は彼に聖ヴラディミル第一級勲章を付与、アメリカの司教会議は、ニコライを世界で最も傑出した布教者に選んだ。
 1910年11月、ニコライは心臓発作に襲われる。回復はしたものの、長い旅行や激しい活動はできなくなる。1911年には、心臓病、喘息、老齢のため、健康はさらに悪化し、1912年1月にクリスマスのミサを祝った後、聖路加病院に入院する。2月に初め、ニコライは教会に戻りたいと希望して退院し、3日に駿河台で死去した。

4) 死後の名声

 1970年、ニコライは聖人の列に加えられ、東京の教会は彼に「使徒に並ぶ者Equal of the Apostles」の地位を与える。同じ年、東京ハリストス正教会とアメリカの正教会は、共にautocephalyを与えられた。ロシア正教会は、直ちにニコライの聖列を承認し、後に、在外ロシア正教会にも承認された。
 1972年、東京の聖復活大聖堂が修復され、このとき「聖ニコライ教会」という名前が与えられた。1975年には、日本以外では初めて、南アフリカのヨハネスブルクに、聖ニコライの名を冠した教区教会が奉献された。聖ニコライの祝日は、彼が死んだ2月3日に祝われている。
   

参考資料

Michael Van Remortel, “Historical Introduction”, in Saint Nikolai Kasatkin and the Orthodox Mission in Japan: A Collection of Writings by an Internationa Group of Scholars about St. Nikolai, his Disciples, and the Mission, ed. By Michael Van Remortel and Dr. Peter Chang, Point Reyes Station, CA/ Monastery of St. John of Shanghai and St. Francisco, 2003, pp. 1-34.
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