ヘシュカスム


 ヘシュカスムという言葉はギリシャ語の形容詞hesychos「静かな」、もしくは名詞hesychia「静寂、落ち着き」から来る。日本語では、ヘシカスム、ヘシュカズム、静寂主義などとも呼ばれる。現代ギリシャ語ではイシハスモス。
 ヘシュカスムは中世のアトス修道院で生まれたと言われるが、実際には、正教会の修道生活と深く結びついて存在してきたかなり漠然とした神秘主義的伝統で、源流は四、五世紀の教父たちまで辿ることができる。ただ、私たちが知っている意味でヘシュカスム、ヘシュカストという言葉が使われるようになったのは中世になってからである。六世紀のギリシャ語では、ヘシュカスト(ヘシュハステス)と隠修士を意味するアナホレテス(anaxwrhths)は同じ意味で使われていた。
 キリスト教神秘主義者たちは、神は人間の知覚を越えたところにあるので、口で言い表すことはできない(apophatic)のだと考えた。彼らは神に近づく方法として、絶え間なく祈りを捧げ続けるという方法を実践した。唇、肉体、思考、意識を祈りによって集中することで、精神は静寂を獲得し、神に近づくことができる、そして究極的には神の現れである神秘の光uncreated lightを見ることができると考えた。
 この神秘の光というのは、タボル山でキリストが変容した際、三人の使徒が見たキリストを包んでいた光のことである。聖シメオン新神学者(949-1022)は、この神的な光にしばしば言及している。
 このとき唱えられる祈りは「イエスの祈り」と呼ばれ、「主イエス・キリスト、神の子、(罪深き)私を哀れみください」(Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me [a sinner])というだけの単純なもの。
 十四世紀になって、このヘシュカスムは、カラブリア出身の修道士バルラームBarlaamから批判を受ける。 バルラームは、イタリアで教育を受けた後、テッサロニキに移り、その後コンスタンティノポリスにやって来て、教師をしていた。彼は当初ラテン人を批判していた。しかし、やがて、Filioqueと教皇の優越を擁護するようになり、1348年にはイタリアに帰ってジェラーチェの司教となった人物である。彼はアトス山を訪れた際にヘシュカスムに接して、それが誤っていると考える。彼は、神は直接経験できるものではなく、祈りを唱えることで神秘の光を見るなどということはあり得ないとし、また、肉体を使って祈りを捧げる方法は、物質主義的だと批判した。バルラームがイタリアに帰ってからは、彼の友人であった、グレゴリオス・アキンデュノスがヘシュカスム反対の立場を継承する。
 これに対し、元アトス山の修道士で、テッサロニカ司教となった聖グレゴリオス・パラマス(1296-1359)は、ヘシュカスムを擁護する。彼は、これまで漠然とした思想に過ぎなかったヘシュカスムに理論的な骨組みを与え、東方進学の伝統の中に組み込んだ。彼の教えは、皇帝アンドロニコス三世(1328-1341)が主催した1341年のコンスタンティノポリス教会会議と、ヨハンネス四世カンタクジノス(1341-1355)主催の1351年コンスタンティノポリス教会会議で肯定された。この二つの会議は、西方教会からは認められていないが、東方教会では大七公会議に匹敵する重みを持っている。
 パラマスは、キリストが神と人間という二つの本質を持っていたことを指摘しながら、人間が精神と肉体の両方を統一させて祈ることの正当性を訴えた。そして、ヘシュカストたちが見る光は、人間には知覚できない神の本質ではなく、神のエネルギーであるとして、彼らが誤っているわけではないと主張した。神の本質とエネルギーを分ける考え方はカッパドキアの教父たちにまで遡る伝統である。パラマスは、神は、そのエネルギーを通じて、人間と直接接触することができるのだと考えた。逆に、バルラームは、神と人間が直接接する可能性を認めないことで、神と人との間の溝を開きすぎていると批判した。
 ヘシュカスムは、1341年の教会会議で完全な勝利を収めたわけではなく、その後、1351年までコンスタンティノポリスでヘシュカスト論争は続いた。1345年、コンスタンティノポリス大主教ヨハンネス十四世(ヨハネス・アプレノス 1334-47年)は再び教会会議を招集し、そこではパラマスとその弟子のイシドロス・ブキラスが異端宣告を受ける。皇帝ヨハンネス・カンタクジノスがヘシュカスム支持派であったのに対し、もう一人の皇帝でまだ子供だったヨハンネス・パレオロゴスとその母サヴォイ家のアンナはバルラマイト、すなわちヘシュカスム反対派であった。1348年の第四次ヘシュカスト教会会議では、大主教ヨハンネス十四世が廃位、グレゴリオス・アキュンディノスは破門され、それまで異端であったイシドロス・ブキラスがコンスタンティノポリス大主教位に就いた。反対派は同じ年の内に第五次ヘシュカスト教会会議を開き、第四次会議の結果を受け入れないことを決定した。1351年皇帝カンタクジノス主催の第六次会議では、反ヘシュカストのニケフォロス・グレゴラスが、ヘシュカスムを批判したが、結局ヘシュカストが勝利し、結論をまとめた会議令(tomos)が出された。1354年、カンタクジノスは帝位を追われ、アトス山の修道士となる。しかし、ヘシュカスムが正教会と、反ヘシュカスムが西方教会の立場と同一視されるようになったこともあり、その後も、ヘシュカスムの立場が揺らぐことはなかった。

 トルコ占領下のギリシャ、特にアトス山でヘシュカスムの伝統は生き続けた。18世紀の後半、そこで、重要な精神的再生の動きが生まれる。そのメンバーはコッリヴァデス(Kollyvades)と呼ばれる。彼らは、ギリシャ国民の再生は、西欧への追随ではなく、正教の真の伝統に立ち戻ることで成し遂げられると主張した。その成果の一つが、『フィロカリア』の出版である。これは、コリヴァデスたちの中心メンバーである、コリント大主教聖マカリオス・ノタラス(1731-1805)と聖山の聖ニコデモス(1748-1809)が、四世紀から十五世紀の著作の抜粋を編纂して、1782年にヴェネツィアで印刷された。『フィロカリア』は、修道士だけではなく平信徒をも対象に書かれており、内的な祈り、特に「イエスの祈り」の理論と実践方法を説明したものである。この本はギリシャ世界ではなかなか広がらなかったが、1793年にモスクワで翻訳(教会スラヴ語)が出版されると、十九世紀のロシアの精神主義復活に大きな役割を果たした。ギリシャでは、1950年以降に広く読まれるようになった。
 ヘシュカスムは、アトス山に住んでいたことのあるソラの聖ニルス(?1433-1509)によってロシアにも伝わった。
 また、1793年に『フィロカリア』の翻訳を出版した聖Paissy Velichkovsky (Paisius 1722-94)もまた、一時アトス山で暮らして、ヘシュカスムの伝統に接していた。パイッシーは、絶え間なく祈りを続けること、特にイエスの祈りを捧げることと、長老への服従を強調した。


参考文献



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