コロッセウム
コロッセウム
『イタリアへの扉』ローマとラツィオ > コロッセウム

コロッセウム(他、コロシウム、コロッセオ)の通称で知られる「フラウィウス闘技場」は、後一世紀、ネロ帝の宮殿ドムス・アウレア跡地に建てられた、剣闘士競技や闘獣競技用の闘技場である。コロッセウムの名は後八世紀の記録に最初に現れ、近くにあった元ネロ帝の巨像(colossus)にちなむものであった。

ウェスパシアヌス帝が70年に建築を始め、三階までを完成させて、79年に落成式を祝った。しかし、これは皇帝の死期が迫っていたため、式典だけ先におこなったものらしく、競技に関する記録はない。競技を伴う真の落成式は、翌年80年にウェスパシアヌスの息子ティトゥス帝が、最上階の部分を完成させてから祝ったものである。その際には、5000頭もの猛獣が殺され、剣闘士競技、模擬海戦もおこなわれたという。ドミティアヌス帝もまたいくらか手を加えたらしい。

外壁部の高さは約50メートル、楕円形の直径は広い部分で188メートル、狭い部分で156メートルある。ローマ世界で最も大きな円形闘技場である。

外壁はトラヴェルティーノで造られており(しかし、現存しているのは外周の約五分の二のみ)、四つの階が積み重ねられている。そして、それぞれが異なったスタイルの半円柱で装飾されており、一階はトゥスキア式、二階はイオニア式、三・四階はコリント式となっている。 一階外周部には80のアーケードが設けられており、そこから階段を上って各階の観客席に向かうことができる。入り口の上部には番号がふってあり、観客のチケットにはこの番号が記されていた。しかし、楕円の軸線に当たる四つの入り口には番号がふられておらず、特に北側の入り口(現存するのはこれだけ)は、装飾の豪華さから、皇帝のためのものであったと考えられている。残りは、剣闘士用の入り口かもしれない。

外壁部で古代のものが残っているのは、北側の五分の二であることは既に述べたが、残りの部分は1820年に、教皇ピウス七世の命令で、建築家のヴァラディエが修復したものである。外壁に飾られた碑文は、これを記念している。

壁面の各所に穴が開いているのが見られるが、これは中世に鉄のボルトを取り出そうとした時のものである。


コロッセウムの外、東の部分に地面から突き出した数本の石柱は、コロッセウムに屋根を張る際の支えで、もともとは外周全部にあった。

コロッセウムの内部には、現在観客席はほとんど残っておらず、舞台に当たる部分も床が完全になくなってしまっている。
舞台の地下にはショーに必要な仕掛けや、猛獣、武器などが置かれていた。そして、通路で、隣にあるマグヌスの剣闘士養成場Ludus Magnusにつながっている。舞台は木板で造られていたらしい。
観客席部分は五階に分けられており、下からの四階がレンガのベンチからなるのに対し、最上階部分は木のベンチでできていた。席は、舞台に最も近い部分が元老院議員階級、それに続く14段が騎士階級、というように舞台から近い順に社会階層ごとの席が決まっていたが、最上段の木製ベンチ席は社会階層ではなく、女性という性別カテゴリーの指定席だった。奴隷や貧民もこの最上段席に詰め込まれたという説もある。
コロッセウムの観客収容能力に関しては議論の決着がついていないが、50,000人から80,000人程度とされる。

コロッセウムは六世紀、テオデリック王の時代には、少なくとも部分的にはまだ使用されていたことが知られる。しかし、その直後ぐらいから建材が取崩されるようになる。残った部分は住居などに使われていた。

参考文献

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