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ギリシャの歴史

13 第二次世界大戦まで


 1922年後半、小アジアから引き上げてきたギリシャ軍部隊が中心となって組織した「革命評議会」が軍事クーデターを起こし、コスタンディノスが退位して、長男ヨルギオス二世が王位に就く。革命政府は、小アジアでの大敗の責任を問う裁判を開始し、11月27日、裁判にかけられた八人の政治家が有罪、うち六人(グナリス、プロトパパダキス、バルタジス、ストラトス、テオドキス、ハジアネスティス将軍)に死刑判決が下り、翌日死刑は執行された。

 トルコとの間に結ばれた、1923年7月のローザンヌ条約で、ギリシャは、スミルナ、東トラキア、インヴロスとテネドス島を失ったが、ギリシャはミティリーニ、ヒオス、サモスの宗主権をトルコ政府から認められた。また、これとは別に、同年一月に結ばれた条約で、トルコとギリシャは、それぞれの正教徒住民とイスラム教徒住民を交換することが取り決められた。この中には、トルコ語を話す正教徒「カラマンリス」や、ギリシャ語を話すクレタのイスラム教徒が含まれていた。しかし、イスタンブールの正教徒、インヴロスとテネドスの正教徒、西トラキアのイスラム教徒だけは例外的に残留を認められた。移動を強いられたイスラム教徒は38万人程度だったのに対し、キリスト教徒は110万人以上にのぼり、この住民交換はギリシャにとって負担の多いものだった。さらに、ロシアやブルガリアからの難民流入もあって、ギリシャの人口は1907年から1928年の間に、260万人から620万人に増加している。しかし、このギリシャ人の流入により、ギリシャ全土で正教徒ギリシャ人が人口の大部分を占めるようになり、ギリシャは少数民族問題から解放された。

 新たに流入してきたギリシャ人に農地を与えるため、大所領の解体が進行する。アトス山修道院の広大な所有地も没収され、彼らに分配された。

 1923年12月に行われた選挙でヴェニゼロス派が圧勝する。これによって、国王ゲオルギオス二世は国外に退去し、翌年初めにヴェニゼロスはギリシャに帰ってきた。1924年、国民投票が行われ、君主制の廃止と共和制の導入が決まる。このとき、新たなギリシャ住民が圧倒的に共和制を、昔からの住民は君主制を支持したことが分かっている。

 ヴェニゼロスは1928年から1932年首相の地位にあった後権力を失う。この時期ヴェニゼロスは、1929年に始まる大恐慌に有効な手を打てないまま、ギリシャは大きな影響をこうむり、対外債務が累積する。1933年と1935年には共和主義派軍人によるクーデターが起きるが、両方とも失敗し、これを支援していたヴェニゼロスは、1935年にフランスに退去することを余儀なくされる。ヴェニゼロスには死刑判決が下されるが、1936年にはパリで亡命中のまま死去した。1935年のクーデターが失敗した後行われた国民投票で、王政復活が支持されたため、ヨルギオス二世は王位に返り咲く。

 共産主義者の扱いをめぐって、有力政党が政府を樹立できないでいる中、1936年8月、国王の支持を受けたヨアンニス・メタクサス将軍(1871−1941年)が、憲法の一部を停止させて軍事独裁を敷く。メタクサスは、ナチズムやファシズムを模倣した、国民意識高揚政策を取る。反自由主義、反共産主義、反議会政治を標榜するメタクサスに対し、国民からの反対はほとんど見られず、わずかに共産主義者とクレタのヴェニゼロス派が抵抗した程度だった。

 1939年第二次世界大戦が始まると、ギリシャは中立を保とうと努める。1940年、メタクサスは、ファシスト政権下のイタリアが突きつけた最後通牒を拒否したため、イタリア軍はギリシャ侵略を始める。メタクサスは、1933年と1935年のクーデターに関与したヴェニゼロス派の元軍人が、ギリシャ軍に戻ることを許さなかったため、これらの兵士はイギリスの指導下で別の軍隊を組織して戦った。ギリシャはギリシャ北部でイタリア軍に勝利するが、1941年にメタクサスが死去し、同じ枢軸国であるドイツが41年の4月にギリシャ侵略を始めると、ギリシャ軍は壊滅し、国王と政府はクレタに、ついでエジプトに逃亡を強いられ、やがてはロンドンに亡命政府を置かねばならなくなる。ギリシャはドイツ、イタリア、ブルガリアによって占領され、破壊と強制挑発に苦しめられる。また、ギリシャのユダヤ人は財産を奪われたり、虐殺されたりした。

 枢軸国に対するレジスタンスを主導したのは共産主義者であったため、同盟国とうまく協力することができなかった。1941年、亡命政府の首相となったゲオルギオス・パパンドレウは、ヴェニゼロス主義者で、反共産主義者であったため、イギリス当局から歓迎され、支持を受ける。パパンドレウは国外にありながら、ギリシャのレジスタンス勢力を協力させようとするが、有力だった左派のレジスタンスと1944年になるまで妥協することができなかった。1943年から44年の冬には、レジスタンス同士の衝突が深刻になる。同年10月、パパンドレウ率いるギリシャ政府がイギリス軍に守られてギリシャに帰ってくるが、12月には、イギリス軍と、武装解除を拒否する共産主義者のレジスタンス組織ELASとの間にアテネで武力衝突が起きた。この混乱を収拾するため、12月24日、チャーチル英首相がギリシャにやって来るが、問題解決が容易ではないことを見て、アテネ大主教のダマスキノスを摂政に任命し、首相の座にはパパンドレウに替えて、ニコラオス・プラスティラス将軍を据えた。

 1946年3月31年には、ほぼ十年ぶりの選挙が行われた。左派が選挙をボイコットする中、勝利したのは民衆派であった。戦前に民衆派の指導者であったパナギス・ツァルダリスの甥であるコスタンディノスが首相となり、9月1日に王制の復活を問う国民投票を行うことを決める。この国民投票では、68%が王政復活を支持したため、9月27日にゲオルギオス二世がギリシャに帰ってきた。しかし、ゲオルギオスはまもなく死去し、1947年4月弟のパヴロスが即位する。

 1947年2月のパリ条約で、ドデカネソスがギリシャの宗主権下に入った。

 第二次世界大戦が終結した後も、ギリシャの共産主義者と、それ以外の党派の対立は収束しなかった。1946年から48年には対立が特に悪化し、1946年10月には、共産主義諸国から援助を受けたマルコス・ヴァフィアディスが共産主義者民主主義軍というゲリラ部隊を組織するに至った。1947年初め、イギリス政府は自国の財政難のため、これ以上ギリシャ問題に介入することはできないとアメリカに通告したため、共産主義が広まることを恐れるアメリカは、イギリスの肩代わりをすることになった。アメリカは、武器や物資を大量に援助し、ギリシャに対するアメリカの影響力が急激に増大した。

 1948年以降、ユーゴスラヴィアとソヴィエトの関係が悪化し、スターリンとティトーの対立で、ギリシャの共産主義者はモスクワ側についたため、ユーゴスラヴィアは共産主義者民主主義軍への援助を停止する。スターリンは、ギリシャを共産化することは難しいと見ていたため、ギリシャの共産主義者は国外からの援助を失った。1949年、民主主義軍はギリシャ政府軍に敗北し、以降立ち直ることはなかった。

 このギリシャ人同士の争いでは8万人もが命を落としており、ギリシャは1949年になってやっと、1940年以来の戦闘状態から抜け出したということができる。

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