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ギリシャの歴史

12 第一次世界大戦まで


 1909年7月には、ギリシャ人の現行政府に対する不満が爆発し、軍人たちがクーデターを起こす。クーデターの中心になったのは下士官旧の若い軍人1300人程度で、彼らは、ニコラオス・ゾルバス大佐を中心に「軍隊連盟Stratiotikos Syndesmos」という組織を結成した。軍隊連盟は、軍の改革を中心とした計画を提示するが、ディミトリオス・ラリス(Dimitrios Rallis)首相はこれを受け入れなかったため、軍事同盟のメンバーとすでにつながりのあったキリアクリス・マヴロミハリス(Kyriakoulis Mavromichalis)が同年10月に首相となった。しかし、改革が遅々として進まないことに痺れを切らせた軍人たちは、クレタ出身の政治家で、憲法改正を訴えていたエレフテリオス・ヴェニゼロス(1864-1936年)をギリシャの新たな指導者として押した。こうして、1910年8月の選挙で憲法改正のための議会選挙が行われ、10月ヴェニゼロスは首相となった。8月の選挙で選ばれた議員が古い利益を代表する政治家ばかりだったことに不満を持ったヴェニゼロスは、12月再び選挙を実施する。この選挙では、362議席のうちほぼ300議席でヴェニゼロス支持派が選出された

 ヴェニゼロスが行った改革には、公職への就任に試験を条件付ける、初等教育の義務化と無料化、地方政府の再編成、女性と子供に対する最低賃金制の導入、累進課税、労働組合の合法化が含まれる。彼はまた、陸軍大臣、海軍大臣を兼任し、軍の改革にも尽力した。ヴェニゼロスへの評価は高まり、1912年の選挙では、181議席のうち146議席がヴェニゼロス支持者によって占められた。

 1912年、ギリシャはモンテネグロ、セルビア、ブルガリアとともにオスマン・トルコに対して宣戦布告し、現在のギリシャ北部(テッサロニキ、アトス山のあるカルキディキ半島、ヨハンニナを含む)、クレタと東エーゲ海の島々を獲得した。ギリシャの国土は、それまでの国土の三分の二を増加した。この当時のテッサロニキには、十五世紀にスペインから追放されて来た、スペイン語を話すユダヤ人(セファルディム)の数がが、ギリシャ人やスラヴ系住民の数よりも多かった。

 第一次・第二次バルカン戦争の結果、ギリシャの国土は70%増加し、人口も280万から480万人と、ほぼ倍近くになった。

 1913年3月、テッサロニキでゲオルギオス一世王が暗殺され、皇太子であったコスタディノス(1868-1922年)が王位に就いた。

 1914年に第一次世界大戦が始まると、三国協商(イギリス、フランス、ロシア)との同盟を望むヴェニゼロスと、ドイツ、オーストリア=ハンガリーなどからなる中央同盟に近く、中立を支持するコスタディノスの間で関係が悪化し、1915年、ギリシャは「国民分裂(エスニコス・ディハスモス)」と呼ばれる混乱に突入する。同じ年、ブルガリアが中央同盟側に立ってセルビアを攻撃すると、ギリシャは1913年6月にセルビア政府との間で結んでいた共同防衛条約に基づいて、セルビアとともに戦うことを迫られるが、国王はこれに消極的だった。10月、イギリス軍とフランス軍はセルビアを助けるためにテッサロニキに上陸、さらに1916年1月にはコルフを占領して、そこに敗北したセルビア軍をあつめた。、1916年8月30日、事実上英仏の占領下にあったテッサロニキで、ヴェニゼロス派の将校がクーデターを起こす。同年10月には、ヴェニゼロスがここにやってきて分離政府を樹立し、テッサロニキに形成されていた有力市民グループ「国家防衛(エスニキ・アミナ)」を軍隊として再組織する。1916年12月、英仏軍は、ギリシャ政府にさらなる圧力をかけようと、アテネに向かうが、そこで撃退される。政府との関係修復が難しいと見た英仏は、テッサロニキの分離政府を承認し、国王勢力が強かったペロポネソスとルメリ(ギリシャ本土)南部に禁輸を敷く。1917年6月、圧力に屈したコスタディノスは長男ゲオルギオスを連れて国外に逃れた。国王の座には次男のアレクサンドロスが就き、ヴェニゼロスは政府をアテネに移した。

 首相に復帰したヴェニゼロスは、三国協商側に立って参戦、マケドニア前線に軍を送り、勝利に貢献した。1919年のパリ講和会議で、ギリシャは小アジアの一部(スミルナ=イズミル周辺)を占領することを認められた。ギリシャ政府はアルスティデス・ステルギアディス高等弁務官を派遣して、司法・行政に当たらせる。ステルギアディスは、キリスト教徒とイスラム教徒に平等に接しようとするが、これはイスラム教徒からは評価されず、キリスト教徒からは非難される結果になった。1920年2月、ムスタファ・ケマルが、協商国の傀儡政権からの独立を宣言し、トルコから外国勢力を排除しようとし始める。同年8月10日のセーヴル条約で、ギリシャは五年間に渡ってスミルナを管理し、その期間の後には地方議会か住民投票でギリシャに正式併合するかどうかを決めることがうたわれる。
 ギリシャはまた、イタリアからロードスを除くドデカネソスを譲渡され、また東西トラキアの支配も認められた。

 1920年10月25日、国王アレクサンドロスが、ペットの猿に噛まれたことが原因で死亡する。彼の兄ゲオルギオスと弟パヴロスは王位を継承することを拒んだため、国民の支持もあり、父親コスタディノスを呼び戻さざるを得なくなる。これを嫌ったヴェニゼロスは自発的に野に降りた。

 1921年、小アジアのギリシャの占領軍は領土を拡張しようとするが、列強の支持が得られないまま、1922年8月26日、ムスタファ・ケマルの軍に敗北する。9月8日には、スミルナのギリシャ軍が、住民を見殺しにして町から退去し、次の日に進駐してきたトルコ軍によってキリスト教徒住民、特にアルメニア系の住民、三万人ほどが虐殺された。数日間のうちに、ギリシャ軍は小アジアから完全に撤退し、ギリシャ系のトルコ住民が避難民としてギリシャに流入した。

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