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ギリシャの歴史

14 大戦終了から現在まで


 1948年に敷かれた厳戒令は1950年2月に解除され、次の月には選挙が行われた。比例代表制で争われた250議席のうち、ツァルダリスの民衆派が、一党としては最大議席の62議席を獲得したが、他の三党が合わせて136議席を獲得したため、これらソフォクレス・ヴェニゼロスの自由主義者、ニコラオス・プラスティラスの国民進歩中央同盟(EPEK)、ゲオルギオス・パパンドレウ党の三党が連立政府を形成した。しかし、連立はすぐに崩壊する。その後、政局は安定せず、1951年に行われた選挙でも、やはり勢力分散が続いたため、アメリカからの圧力もあって、1952年11月の選挙は、比例代表ではなく、最大得票者が勝利するシステムに戻された。

 その結果、アレクサンドロス・パパゴス元将軍率いる政党が圧勝し、300議席のうち247議席を獲得した。パパゴス政権は抑圧的な部分もあったが、これでついにギリシャは政治的安定を獲得し、経済的発展の基礎を築くことができるようになった。

 パパゴス時代には、対外関係でもギリシャの安定は増大する。1951年ギリシャは北大西洋条約機構(NATO)に加入した。1953年2月にはアンカラで、ユーゴスラヴィア、トルコ、ギリシャ参加国の親善条約が結ばれ、8月にはユーゴのブレドで、参加国の同盟条約が締結された。しかし、キプロスを巡る対立で、トルコとギリシャの関係はその後再び悪化した。

 50年代半ばから、人口の80%を占めるギリシャ系住民の間で、ギリシャへの併合を求める声が高くなった。1923年のローザンヌ条約で、敗戦国だったトルコはキプロスに対するイギリスの宗主権を認め、25年、キプロスはイギリスの植民地となった。1950年3月にキプロスの大主教となったマカリオスはギリシャへの併合を強く支持した。また、ゲオルギオス・グリヴァス大佐は、イギリスに対する武力闘争を指揮した。1955年4月、グリヴァス率いる、キプロス闘士民族組織(EOKA)が、暴力的なデモを組織すると、キプロスを支配下に留めたかったイギリスは、トルコ系住民がギリシャ併合に反対するように仕向け、また、トルコの介入も求めた。

 1955年10月にパパゴスが死去すると、他の候補がいたにも拘らず、国王パヴロスはコンスタディノス・カラマンリスを首相に任命する。パヴロスはNATOとの関係悪化を望んでいなかったため、同じ考え方のカラマンリスを政権に就けたのではないかと考えられている。

 1956年、マカリオス大主教はセイシェルに追放されたが、キプロスでの暴力的な闘争は激化する。1958年になると、ギリシャもアメリカも、何らかの形でこの問題を収束させようと努力を始め、マカリオスもキプロスの併合ではなく、独立を、受け入れ可能な選択肢であると宣言した。関係国は、イギリスがデカリアとアクロティリに空軍基地を残すことを条件にキプロスを独立させることで合意し、1960年8月、キプロスは英連邦内の独立国となった。それに先立って、1959年12月、マカリオスが大統領に、ファジル・クチュックが副大統領となった。

 その間、ギリシャは経済成長を続け、1951年から56年の間に平均国民所得は倍増、1956年と1964年の間にもほぼ倍増を成し遂げた。

 1963年、国王と対立したカラマンリスは首相を辞任し、11月3日に選挙が行われる。比例代表制での投票の結果、パパンドレウの中道連合(EK)が138議席、国民革新連合(ERE)が132議席、連合民主左派(EDA)が28議席、進歩党が2議席を獲得した。カラマンリスはEREの指導者の座をパナギョーティス・カネロプロスに譲って、フランスに隠居した。パパンドレウは一旦首相となるものの、連立を拒んで、再び選挙に打って出る。64年2月16日の選挙で、パパンドレウの望みどおり、EKは過半数を獲得した。

 パパンドレウ首相は教育改革などの側面で成果を挙げたが、軍の改革に手をつけようとして失敗、国王コンスタディノス二世に辞任を迫られる。国王とアメリカは、中道連合の議員に賄賂と説得でパパンドレウを見捨てさせ、ステファノス・ステファノプロスを首相とした政府を成立させる。1966年12月には、パパンドレウとEREの党首カネロプロスが、1967年5月28日に選挙を行うことで合意した。

 しかし、この選挙が行われることはなかった。1967年4月21日、軍の下士官がクーデターを起こし、国王、重要な政治家、軍人を捕獲した。中心となったのは、ゲオルゴス・パパドプロスとニコラオス・マカレゾス大佐、スティリアノス・パタコス准将であった。彼らは文民のコンスタディノス・コリアスを首相に立てるが、重要な大臣の座は自分たちが占めた。クーデターの原因は、中道連合が勝利した場合に、超保守派の軍人が軍から追われるのではないかと恐れたためだと考えられている。コンスタディノス王が幾度かクーデターを覆そうとして失敗した後、パパドプロスが首相に、ジタキス将軍が摂政となった。政府は、官僚、学校・大学教師、法律家の忠誠を要求し、批判的な者は容赦なく職から追った。また、メディアも厳しい統制を受けた。1968年には憲法も改正して、国制を軍事国家化した。体制に反対する者は投獄、処刑され、アンドレアス・パパンドレウ、作曲家ミキス・テオドラキス、微生物学者アマリア・フレミング(ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング卿の妻)などの著名人は、国外追放になった。欧州各国ではギリシャに対する批判が高まるが、アメリカはNATOの政策に忠実なギリシャ政府に圧力をかけることを望まなかった。

 ギリシャ人は、圧制には反感を感じながらも、ちょうどギリシャの経済的発展期にあったため、国民の間で大きな反発が起きることはなかった。しかし、1973年、インフレ率が30%を超えるようになると、政府に対する不満が増大し、学生を中心にデモなどの抗議活動が行われるようになる。すでに摂政と首相を兼任して独裁者色を強めていたパパドプロスは、国制を変えて大統領となり、権力の安定を図る。しかし、学生のデモは鎮静化せず、特にアテネ工科大学、テッサロニキ大学、パトラス大学は学生によって占拠された。政府は暴力的にこれを鎮圧しようとし、特にアテネ工科大学では34人もの死者を出したため、国民からの批判はさらに高まり、パパドプロスは失脚する。しかし、政府を引き継いだディミトリオス・ヨアニディス准将は圧制を続け、国民の不満は収まらないままだった。1974年、軍事政府は、1960年イギリスから独立したキプロスの大統領であった大主教マカリオスを追い落とそうとして失敗、トルコによる北キプロスの占領を招いたため、軍事政府は崩壊した。

 ギリシャには、亡命していた保守派の政治家コンスタディノス・カラマンリスが呼び戻された。カラマンリスは、国民の相違を反映した政府を作るため、11月17日に選挙を、12月8日に国制に関する国民投票を行うことを決める。選挙の結果、カラマンリス率いる新民主主義党(ネア・デモクラティア:クーデター前の「国民革新連合」)が300議席のうち219議席を占める勝利を挙げた。国民投票では、軍事政府によって廃止されていた王政を回復させるという案は否決された。

 1975年、再び憲法は改正され、この憲法では立法府に対し行政府の力がより強くなった。カラマンリスは、ギリシャ経済を立て直し、また、軍事政権下で改悪されていた教育改革も行った。

 1977年の選挙で、新民主主義党は再び過半数の議席を獲得したが、前回よりも少ない172議席に留まった。対して、アンドレアス・パパンドレウ率いる政党PASOK(パンヘレニック社会主義運動)が躍進し、1974年での得票が14%だったのに対し、今回は25%に上昇した。PASOKを含め、左派への票が増大した(右派50%に対し左派37%)のがこの選挙の大きな特徴である。

 1981年1月1日、ギリシャはヨーロッパ共同体に加盟する。同じ年10月18日の選挙で、NATOとヨーロッパ共同体加盟に批判的だったアンドレアス・パパンドレウのPASOKが選挙で勝利して(300議席中172議席)、ギリシャではじめての社会主義政府が成立した。しかし、ギリシャはEECやNATOから抜けることはなく、国際社会でのギリシャの位置に大きな変化は生じなかった。


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