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ギリシャの歴史

9 オスマントルコ時代


 メフメト二世は、キリスト教徒に対して寛容で、コンスタンティノポリスを制圧した時にも、大主教座が空位であるのを知って、1454年1月、アドリアノープル(現エディルネ)で捕らえられてた修道士ゲオルギオス・ゲンナディオス・スコラリオスを即位させた。ゲンナディオスは、ローマ・カトリック教会の主張に対して妥協するよりは、異教徒であるイスラム教徒の支配下でオーソドックスの信仰を守ることを主張していたので、オスマントルコの支配にとって都合がよかった。メフメト二世は、ビザンツ皇帝がおこなっていたのと同様に、自身の手でゲンナディオスに司牧杖を渡す儀式を行った。

 ギリシャに攻め寄せたオスマントルコ人は、まず本土を制圧する。そして、1470年にはエウボイア(エッヴィア)を、1450〜60年代には、エーゲ海の島々の多くを支配下に入れた。すぐに支配下に入らなかったのは、ロードス(1522年)、ヒオスとナクソス(1566年)、キプロス(1571年)、サモス(1577年)、クレタ(1669年)、そしてティノス(1715年)のみである。しかし、イオニア海の島々(エプタニシア)は、コルフ(ケルキュラ)が1797年までヴェネツィアの支配に留まったほか、ザキントス(ザンテ)、ケファロニア、キシラ(ケリゴ)、パクソス、イタカ、レフカス(レフカダ、サンタ・マウラ)は、一時的にオスマントルコの支配下に入ったものの、その後ヴェネツィアの支配下に戻った。

 オスマン帝国の住民は、どの宗教を信仰しているのかに従い、ミレット(millet)という行政区分に分けられた。正教を信仰するギリシャ人は、正教のミレットに入り、その長にはコンスタンティノポリスの総主教が任命された。このミレットは、Millet-i Rumと呼ばれ、ギリシャ人だけではなく、セルビア人、ルーマニア人、ブルガリア人、ヴラフ人、正教徒のアルバニア人、正教徒のアラブ人もそこに含まれた。総主教は、エトナルヒス(ethnarchis)、もしくはミレット・バシ(millet bashi)となり、正教徒間の司法、正教徒の行政・教育を担うほか、宗教税の徴税権も認められた。総主教の下には、大主教や主教がいて、地方におけるそれらの役目を担った。オスマン帝国においては、(総・大)主教が宗教的な長であっただけではなく、司法・行政の長でもあったのだ。
 十八世紀になると、ギリシャ人以外の正教徒の間で、このシステムに対する反感が募っていった。十九世紀のバルカン半島における民族主義は、オスマントルコの支配に対してだけではなく、ギリシャ人の支配に対する反発でもあった。

 オスマントルコ支配下のキリスト教徒は比較的広範な自治を享受していたが、イスラム教徒との関係においては劣等に立たされた。たとえば、キリスト教徒はイスラム教徒と結婚できなかったし、服装に制限が設けられ、また、武器を身につけたり、馬に乗ることも禁じられていた(常に守られるとは限らなかったが)。キリスト教徒は兵役に就くことを免除される代わりに、Haradjという税を課せられた。ただし、キリスト教徒は時にイェニチェーリ徴発をうけ、これを課された時には、頭がよく、見栄えもよい少年を差し出さなければならなかった。こうして集められた少年はイスラム教徒として育てられ、オスマン帝国を支える武官や文官となった。子供を国に差し出さねばならないのは辛いことであったが、一部の貧しい家族は、子供が栄達できることを期待して、進んで子供を差し出すこともあったことを示す証拠がある。このイェニチェーリ・システムは17世紀には衰え、18世紀には完全に消滅した。

 1645年から1669年まで続いたオスマントルコとヴェネツィアの戦争で、1669年ヴェネツィアはクレタ島を獲得した。また、1684年から1715年まで、ヴェネツィアはペロポネソス半島を掌握した。

 ギリシャ人がトルコ人に対して反乱を起こしたこともある。1611年にエピロスでおきたディオニシオス・スキロソフォス(Dionysios Skylosophos)の乱や、1808年にテッサリアで起きたエフティミオス・ブラカヴァス(Efthymios Blakhavas)のランがそれである。

 ギリシャ人は兵士になることができなかったが、オスマン政府はギリシャ人から、アルマトロイと呼ばれる非正規軍を組織した。その第一の目的は、クレフテスと呼ばれる盗賊に対抗することだった。クレフテスというのは、さまざまな理由から人里離れた所に隠れ住み、ギリシャ人やトルコ人を襲う盗賊のことだが、時に反トルコの義賊という色彩を帯びることがあった。ギリシャ独立戦争に少なからぬ役割を果たすが、クレフテスの存在自体は1480年すでに記録されている。オスマントルコ政府はギリシャ本土(ルメリと呼ばれる、ペロポネソスを含まないテッサリア、エピロスといったギ地域)を14から18のアルマトイ区(armatolik)に分け、それぞれのアルマトイ軍はカペタニオス(kapetanios)が指揮した。ペロポネソス半島には、アルマトイではなく、カポイ(kapoi)と呼ばれる非正規兵がいて、その地方のギリシャ人有力者が指揮した。クレフテスとアルマトイの間の境はしばしばあいまいで、クレフテスがアルマトイとして雇い入れられることもあれば、給料をもらえなくなったアルマトイがクレフテス化することもあった。

 1768年、オスマントルコとエカテリーナ女帝時代のロシアとの間に戦争がおきる(露土戦争)。1774年に結ばれた「クチュック・カイナルディ - Kutchuk-Kainardji - 条約」では、トルコがロシアいに対し重大な譲歩を強いられた。まず、モルダヴィア(Moldavia)とワラキア(Wallachia)は、トルコの宗主権下ながら一種の独立を獲得し、この地域の総督の任免にロシアが発言権を有することになった。第二に、ロシアの船舶は、トルコ船舶同様、黒海、ダーダネルス海峡、地中海を自由に航行できることになった。そして、スルタンはキリスト教と教会を保護することを約束させられた。ギリシャが独立戦争を起こした時、ロシアはこの最後の項目を口実にして介入することになる。

 十八世紀にオスマン帝国の国力が衰退し始めると、帝国の各地で有力な太守が独立の傾向を強めてゆく。ギリシャでは、ヨアンニナのアリ・パシャがその一人。他方、スルタンの周囲で、ファナリオットと呼ばれる、十一の家族からなるギリシャ人有力者が力を増してくる。これは、スルタンの力が弱くなったことで、帝国内外のキリスト教徒と交渉する必要が生じたため。例えば、1699年のカルロヴィッツ条約は、アレクサンドロス・マヴロコルダトス(ex aporriton - a secretis)が交渉をまとめた。モルダヴィアとワラキアは、1709年(ワラキアは1715年)から1812年まで、ファナリオットの間から選ばれるhospodarと呼ばれる代官によって統治された。

 また、十八世紀には、ギリシャの内外に富裕なギリシャ人商人が多く現れる。イスタンブル、スミルナ、サロニカといったオスマン帝国内の都市だけではなく、ヴェネツィア、トリエステ、レッグホーン、ナポリ、マルセイユにも、ギリシャ人の商人コミュニティーが形成されていった。フランスの独立戦争とナポレオン戦争で禁輸が敷かれた時代、ギリシャ人商人は禁輸破りで巨大な富を築き、ヒドラ、スペツェス、プサラが商船を増大させたのは、これと時を一致している。

 この時代に属するのが、ギリシャ独立の英雄の一人アダマンティオス・コライス(Adamantios Koraïs)である。彼は、実際に独立戦争に参加したわけではなく、ギリシャに住んだことすらないのだが、ギリシャ国民意識発揚に貢献したことを評価されている。彼は、1748年、スミルニ(スミルネ)の商人の家に生まれた。最初は、商人になろうとしたのだが、才覚がなかったため、モンペリエ大学で医学を学んだ跡、1788年からパリで古典学の勉強を始めた。彼はそこでフランス革命を経験する。コライスはギリシャ人の国民意識を高揚させ、教育水準を上げるため、ヨアンニナ出身の富裕な商人ゾシマス兄弟から資金援助を受けて、ギリシャの学校に無料でギリシャ古典の本を送るなどした。しかし、1833年に死去するまで、彼はギリシャに帰ることも、武力によるギリシャの独立を支持することもなかった。

 1796年から97年にかけてのナポレオンのイタリア遠征の結果結ばれたカンポ・フォルミオ条約(1797年10月)で、イオニア諸島の支配権はヴェネツィアからフランスに移った。1798年にナポレオンがエジプト(当時はオスマントルコ領)遠征に乗り出したこと、また、フランス革命の思想がギリシャに飛び火することが懸念されたこともあって、トルコはロシアと手を結び、イオニア諸島からフランス人を追い出した。1800年から1807年の間、イオニア諸島はロシアの支配下に入ったが、Tilsitの和約の結果、再びフランスの手に戻される。しかし、今度はイギリスが食指を伸ばし、1814年までにはイオニア海のすべての島がイギリスの支配下に入り、1815年イギリスの独立保護領となる。

(つづく)


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