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ギリシャの歴史

8 十字軍時代


 1191年、イングランドのリチャード一世(獅子心王)が、第三次十字軍(1189-1193年)に向かう途中、キュプロス島をビザンツ帝国から奪う。

 悪名高い第四次十字軍(1202-1204年)では、ギリシャにも多くのラテン人(主としてフランス人、ドイツ人、ヴェネツィア人)が押し寄せた。ヴェネツィアは、東方交易の基地となるエーゲ海の島々や、メトニやコロニといった港を支配下におさめた。オルシーニ家やトッチ家によるケファロニア大公領の支配、サヌーディ家やクリスピ家によるキュクラデス諸島大公領の支配がその例である。

 ギリシャの本土は主としてフランドル、フランス、ドイツから来た「フランク人」によって分断された。アテネとテーベ大公領(1205-1460年)やアカイア君主領(1205-1432年)が代表的なものである。これらの小君主領は、1223年まではテッサロニキのフランク王に、1260年まではコンスタンティノポリスのラテン皇帝に、そしてその後はヨーロッパのカペー、アラゴン、アンジュー王家に名目上従属しながら、事実上独立国のように機能した。1310年から1522年までロードス島を支配した聖ヨハネ騎士団のような例もある。

 ギリシャでビザンツの支配が残ったのは、エピロス近郊だけであった。

 第四次十字軍の指導者の一人モンフェラ侯ボニファス(Boniface de Monferrat)は、1204年ギリシャに到着すると、彼の死んだ兄弟が姻戚関係を通じて獲得していた称号「テッサロニキ王」を自ら継承することにした。彼は、ギリシャを北部の侵略から守る戦略的拠点であるテルモピライを含むボドニツァ領を、ロンバルド侯爵グイド・パッラヴィチーニ(Guido Pallavicini)に与えた。ボニファスはついでアテネを無血開城させて獲得すると、アッティカとテーベのあるヴィオティアを、自らの封臣であったオトン・ド・ラ・ロッシュに付与した。アテネ・テーベ大公領については、本サイト「アテネの歴史・十字軍時代」を参照して欲しい。

 他方、ボニファスは1207年トラキアでブルガル人に殺害され、1209年5月にラミア近くで行われたラヴェンニカ会議で、テッサロニキ王領は、エルサレムのラテン皇帝のものとなった(下「テッサロニキ王国」参照)。

ペロポネソス

 十字軍時代のペロポネソスに関しては「モレア年代記」という史料が残っている。モレアというのはもともとElisから西の地方の別名だったが、中世にはペロポネソス全域を指して使われるようになった。最初はフランス語で書かれ、ギリシャ語、アラゴン語、イタリア語でも残っているが、内容は少しずつ異なっている。

 ペロポネソス半島を支配したアカイア君主領は、シャンパーニュ地方からやって来たギヨーム・ド・シャンプリットGuillaume de Champlitteとジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンGeoffroy de Villehardouinによって設立され、主都はアンドラヴィダ(アンドルヴィル)にあった。1204年、ヴィルアルドゥアンは、シリアからペロポネソス半島の南西の突端にあるメトニに到着する。彼はモンフェラのボニファスが南下してきていることを聞いて、北上し、ナフプリオで元戦友のギヨームと出会う。二人はペロポネソス半島の支配を独占するため、協力することを約束する。ボニファスはそれ以上南下して来なかったため、二人はまず、オトン・ド・ラ・ロシュと協力してアクロコリントスのレオン・スグーロスを包囲し、続いて半島北西の要塞都市パトラス、さらには、アンドラヴィダとカタコロ半島のポンディコ要塞を獲得した。しかし、メトニまでやって来たところで、地元のギリシャ人ニクリ(Nikli)とヴェリゴスティ(Veligosti)とタイゲトス(Taygetos)に住むスラヴ人から抵抗に遭遇する。エピロスの支配者ミハイル・ドゥカスもこのギリシャ=スラブ軍に助力していた。しかし、ヴィルアルドゥアンとシャンプリットは、クンドゥラ(Koundoura)の戦いでこれを打ち破った。その後、コロニ(Koroni)とカラマタも彼らの手に落ちる。

 1208年、シャンプリットは、ブルゴーニュにいる兄が死んだことを知って、継承権を主張するためフランスに帰る。彼はローマ教皇から「全アカイアの君主」という称号を得ていたが、これは、ヴィルアルドゥアンが受け継いだ。ヴィルアルドゥアンは、同じ年の内にアンドラヴィダ(アンドルヴィル)に会議を召集し、領土の土地台帳を作るとともに、ペロポネソス(=アカイア)を十二の男爵領に分けた。この十二の男爵はアカイア高等裁判所を形成するメンバーとなった。アルカディアとカラマタはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンに、パトラスはギヨームト・ド・アルマンに、マタグリフォン(Matagrifon、現ディミツァーナの近く)はゴティエ・ド・ロシエールに、カリタイナ(Karitaina)はユーグ・ド・ブリュイエールに、カラヴリタはオトン・ド・トゥルネに、ヴォスティツァ(現エギオ)はユーグ・ド・リール・ド・シャルピニー(Hugues de Lisle de Charpigny)に、イェラキはギュイ・ド・ニヴェレに、ニクリはギヨーム・ド・モルレに、カランドリツァはロベール・ド・ラ・トレムイユに、パサヴァスはジャン・ド・ニュイリーに、ヴェリゴスティはマテュー・ド・ヴァレンクール・ド・モンスの男爵領となった。また、ペロポネソスは七の司教区に分けられた。

 その後、間もなく、ヴェネツィアはコロニとメトニの要塞、そして1388年にはナフプリオを交渉と購入で獲得する。

 ジョフロワ一世は1228年に死去し、その息子ジョフロワ二世は1246年に死去した。その跡を継いだ、やはりジョフロワ一世の息子であるギヨームは、アテネ大公ギュイ・ド・ラ・ロシュ一世と協力して、モネンヴァシアを攻め落とした。また、南に住むスラヴ人を牽制するため、1248年にはミストラの要塞建築を始めた。


 ギヨームは、エピロスのデスポテス、アンナ・コムネナ・ドゥカイナを三人目の妻に迎える。1259年、マケドニアのペラゴニアで、エピロスのデスポテスであるミハイル・ドゥカス二世とニカイアのビザンティン皇帝ミハイル・パライオロゴス八世(1261年にコンスタンティノポリスをラテン人の手から奪回することになる皇帝)が戦った際、ギヨームは義理の父であるデスポテス側に立って戦ったが、敗北し、皇帝の捕虜となる。ギヨームは、ペロポネソスの要塞、ミストラ大マイナ(マニ)モネンヴァシア、そしてもしかするとイェラキをも皇帝に引き渡すことでやっと解放された。

 ギヨームは1278年、男子継承者のいないまま死去したため、アカイア君主領は、ナポリのアンジュー王が派遣する代理人に統治されるようになった。しかし、1282年、シチリアの晩鐘事件でアンジュー家による南イタリアの支配が揺らぎ、1289年にはシャルル二世が、ギヨームの娘イザベラにアカイア君主領の権利を返還した。イザベラは、最初、エノー家のフロラン(Florent d'Hainault)と、次にサヴォイ家のフィリップと結婚して、アカイアを治めた。しかし、1307年にフィリップが死んでからは、アカイア君主領の支配は安定せず、複数の人物が支配権を主張する状況が続いた。

 1261年にギヨームがビザンツ帝国に引渡した要塞ミストラは、新しい支配者の下で成長し、重要な都市となった。安全を求めたスパルタの住民が移住したため人口は増加し、大きな教会がいくつも創建された。1348年までにはモレアのデスポテスの本拠地となった。最初の三代のデスポテスは貴族カンタクジノス家のメンバーで、三代目の人物が反乱を企てると、テオドロス・パレオロゴス(皇帝ヨハンネス五世の息子)がこれを鎮圧し、四代目のデスポテスとなった。1394年、テオドロスが手に入れたアクロコリントスは、1458年、オスマントルコに奪取されるまでビザンツ側の手にあった。ミストラは1460年にトルコ人の手に落ちた。1432年までに、ペロポネソスは、ヴェネツィアの支配下にあった港(メトニ、コロニ、アルゴス、レパント、ナフプリオ)を除き、ほとんどがモレアのデスポテスによって支配されていたが、その支配は1461年、完全に終了する。

エピロス

 1204年、十字軍によって皇帝がコンスタンティノポリスから追われると、皇族の一人であったミハイル・ドゥカスが、アルタを本拠地として、エピロス地方に実質的な支配権を確立する。十字軍前の取り決めでは、エピロスはヴェネツィアの支配に入るはずであったが、ドゥカスがヴェネツィアにドゥラッツォとコルフの支配を認めると、ヴェネツィアはそれ以上介入しようとはしなかった。しかし、しばらくするとミハイルは領土の拡大を始め、まずラリッサを奪取、1214年にはドゥラッツォとコルフもヴェネツィアから奪ってしまった。

 ミハイルの跡を継いだテオドロスはテッサリアのラテン領主たちを一掃し、1224年にはテッサロニキを包囲して、陥落させた。最盛期のエピロス・デスポテス領は、アドリア海岸から、アッティカ、ナウパクトス、コリントス、東にはアドリアヌポリスにまで及んだ。1227年には、オクリド大主教がテオドロスを「ローマ人の皇帝」(ビザンツ皇帝の称号)として戴冠させたため、ニカイアのビザンツ政府との溝は深まった。

 テオドロスがブルガリアとの戦いで破れ、捕虜となり、目をつぶされると、彼の跡を継いだミハイル・ドゥカス二世はニカイアのビザンツ皇帝ヨハンネス・ヴァタツェス三世と和約を結び、正式にデスポテスの称号を付与された。1256年には、ミハイルの息子で、ミハイルと同時にデスポテスの称号を付与されていたニキフォロスと皇帝の孫娘マリアが結婚する。

 1257年、シチリア王フェデリコ二世の息子ホーヘンシュタウフェンのマンフレッドがエピロスを攻撃し、コルフと本土の都市のいくつかを奪う。ミハイルは娘エレニをマンフレッドに嫁がせ、マンフレッドがすでに占領していた土地を婚資として持たせることで、シチリア王国との間に同盟関係を築いた。また、ミハイルはもう一人の娘アンナをアカイアの君主ギヨーム・ド・ヴィルアルドゥアンに嫁がせた。ミハイル二世は、これらの新たな同盟関係の力で、ニカイアの皇帝に勝利できるのではないと目論むが、1259年ペラゴニアの戦いでミハイル・パレオロゴス八世に敗北して、ギリシャにおけるビザンツ帝国の影響力が強まった。その数年後、ミハイル二世の息子ニキフォロスが、皇帝の姪アンナ・パレオロギナと結婚して、両家の対立は沈静化した。

 十四、十五世紀、エピロスは、イオニア海の島を領有していたイタリア系のオルシーニ家やトッコ家、さらには、北方のセルビア人、アルバニア人からの圧力を受けた。特にセルビア王ステファン・ウロシュ四世ドゥシャンは、ビザンツ皇帝ヨハンネス・カンタクジノスの承認を受けて、1345年までにテッサリアとマケドニアの大部分を占領し、1348年までにはエピロスもその支配下に入った。1359年、それまで名目上の支配を続けていたエピロスのデスポテス、ニキフォロス二世が死去すると、エピロスは、ヨアンニナを支配するセルビア人とアルタを支配するアルバニア人の間で分割された。イタリアのブオンデルモンティ家、スパタ家、そしてイオニア海の島々を支配していたトッコ家がときにエピロスに勢力を伸ばそうとし、特にカルロ・トッコは、パレオロゴス家の娘と結婚し、皇帝マヌエル二世からデスポテスの称号を付与されたが、状況を大きく変えることはなかった。

テッサロニキ王国

 すでに述べたように、1204年、ボニファス・ド・モンフェラが「テッサロニキ王」の称号を継承して、一帯を占領するが、彼は1207年、ブルガリア人に殺害され、幼少だった息子のデメトリウスが王位を継承する。デメトリウスの摂政であったビアンドラーテのウベルトとデメトリウスの異母兄弟ギヨームが、ロンバルド貴族の助力で王位を簒奪しようとするが、コンスタンティノポリスのラテン皇帝アンリ・ド・エノーが介入し、1209年のラヴェンニカ会議でデメトリウスを復位させた。しばらくの間、テッサロニキ王国は、デメトリウスの母マリーが統治していたが、1224年には、エピロスのデスポテス、テオドロス・ドゥカスがテッサロニキを陥落させ、エピロスに併合された。しかし、1230年、テオドロスがブルガリアを侵略してクロコトニカ(Klokotnica)で敗れると、テッサロニキ周辺の支配はブルガリア王の手に移った。

 テオドロスはブルガリアの捕虜となり、目をつぶされたが、その後、ブルガリア王イヴァン・アセン二世(1218-1241)を自分の娘イリニ(イレネ)と結婚させることに成功し、テッサロニキに戻って来て、デスポテスの位に就いていたマヌエルを追い出し、自分の息子ヨハンネスを傀儡皇帝に仕立てた。1241年、テオドロスは、ニカエアの皇帝ヨハンネス・ヴァタツェスに捕らえられるが、交渉の結果、息子のヨハンネス・ドゥカスは、皇帝ではなく、テスポテスとして支配を続けられることになった。1244年、ヨハンネスは死去し、テオドロスは、もう一人の息子ディミトリオスに跡を継がせるが、陰謀により、ディミトリオスとテッサロニキは皇帝ヨハンネスヴァタツェスの手に渡った。

 テッサロニキの北に位置するセルビア王国からの圧力が大きくなってきたため、ビザンツ帝国の将軍(プロトストラトル)ミハイル・グラヴァス・タルカニオテス(Michail Glavas Tarkhaniotes)は、十三世紀の終わりごろ、ステファン・ウロシュ二世の治めるセルビアに戦いを挑むが、決定的な戦争には発展せず、皇帝アンドロニコス二世は、まだ5歳にしかならない自分の娘シモニスをセルビア王に嫁がせることで、地域の安定を図った。

 コンスタンティノープルでアンドロニコス三世が祖父アンドロニコス二世にクーデターを起こした際には、テッサロニキ総督だったテオドロス・パレオロゴスが独立を宣言している。テオドロスはまもなく死去したため、1328年テッサロニキは皇帝の支配下に戻ったが、このエピソードは、当時のテッサロニキの重要性と繁栄を物語っている。

 1342年テッサロニキでは、熱心党と呼ばれるグループが市の支配権を握り、イタリアのコムーネと似た、一種の共和制を樹立する。彼らは、富裕な貴族や修道院から富を取り上げて、それを小さな教区教会、貧民、兵士に分け与えようとしたようである。しかし、1350年このクーデター鎮圧のため、皇帝ヨハンネス六世カンタクジノスが、僚帝であったヨハンネス五世パレオロゴスとともにテッサロニキまでやってくると、市民は喜んで皇帝を迎え入れ、このギリシャ中世史たぐい希に見る実験は終わった。

 1387年、テッサロニキを皇帝として治めていたマヌエル(皇帝ヨハンネス五世パレオロゴスの息子)は、トルコからの脅威を防ぎきれないと判断し、町から逃げ出したため、市民はオスマントルコ軍に門を開いた。1402年アンカラ郊外で、オスマントルコ軍がティムールとモンゴル人に敗北した後、1403年に開かれたガリポリ会議の取り決めで、テッサロニキは皇帝の支配に戻ったが、1422年にはスルタン・ムラート二世がテッサロニキを攻め、デスポテスだったアンドロニコス・パレオロゴスは、都市を守ることをあきらめて、ヴェネツィアに譲渡してしまう。しかし、ヴェネツィアもテッサロニキを守りきることはできず、1430年3月29日、町はムラート二世の手に落ちた。

ヴェネツィアの支配

 ヴェネツィアの関心は、ギリシャを支配することではなく、東方貿易のための海運と防衛の拠点を確保することにあった。ヴェネツィアは、1204年の領土分割でエーゲ海島々の多くを獲得したが、購入によってさらに領土を広げた。1204年に買い入れたクレタ島は1669年まで、1209年に購入したエウボイアは1470年までヴェネツィア支配下に留まった。エウボイアの首都はカルキス(ネグロポンテ)で、エーゲ海支配の拠点となった。コロニとメトニは、1500年にトルコに奪われるまで、シリア交易の基地だった。アルゴスは1388年に購入、1463年に失う。ナフプリア(ナフプリオ)は同じく1388年に購入、1540年に失うが、1686年に再獲得し、1715年最終的に失った。ヴェネツィアのギリシャ支配は、1718年、トルコにペロポネソスの支配域とティノス島を奪われて終わった。

 ジェノヴァは、ヒオス島を1566年まで保有。その他、レスボス島サモス島、タソス島を支配したが、これらは全て1470年代にトルコに奪われた。



参照文献


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