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ギリシャの歴史

11 ギリシャ王国


 列強の介入によって、1930年ギリシャは独立を獲得するが、実態は列強の庇護国に過ぎなかった。イギリス、フランス、ロシアからなるロンドン会議のメンバー国は、この三国とは直接関係のない国の王家から、ギリシャ王を選ぶことで合意し、1832年5月、バイエルン王ルードヴィッヒ一世の息子、ヴッテルバッハのフリードリッヒ・オットーを王位につけることで、バイエルンと合意する。

 当時18歳だったオットーは、1833年2月6日ナフプリオに上陸する。王には三人の摂政(Count Joseph von Armansperg, Professor Georg von Maurer, General Karl Heideck)と3500人の兵士がつけられていた。

 首都はナフプリオからアテネに移され、大規模な都市計画が実施された。

 しかし、地方では非正規兵がなかなか中央の権力に服従せず、また無産農民たちの不満もつのった。国有地の一部が安価で農民に払い下げられたが、税が重かったため、農民の負担はなかなか軽減しなかった。1833年と1834年、刑法と民法が発布されたが、ローマ法を元にした西ヨーロッパの法典がモデルだったため、それまでギリシャで行われていた慣習法の実際とは必ずしもそぐわなかった。教育システムは、フランスとドイツのものが導入され、教師の育成のため1834年ナフプリオに師範学校が設立された。1937年にはアテネのプラカ地区に、デンマーク人の建築家クリスティアン・ハンセン(Christian Hansen)の設計で、初めての大学も設立された。

 1833年7月には、教会についての取り決めがなされる。それまで、ギリシャの正教会はイスタンブールのコンスタンティノープル総主教座管轄下にあったが、スルタンの強い影響下にあったため、そのままにしておくわけにはいかなった。ギリシャ教会はアウトケファロス(自治)を宣言され、教会の運営は五人の主教の合議制とされた。しかし、彼らの決定には政府の裏書が必要で、また、教会の長はカトリック教徒の国王オットーであり、教会は政府の厳しい管理下におかれた。また、593あった修道院のうち412が閉鎖され、財産は王に没収された。コンスタンティノポリスの総主教が、この1933年の取り決めを承認したのは1850年になってからのことである。

 王はギリシャを立憲君主国とするはずであったが、なかなか憲法を発布しようとせず、国家の重要事は全て王と、バイエルンから迎えられた顧問団が決定していた。1838年、バイエルン軍はギリシャから完全に撤退したが、戦争大臣はバイエルン人のままだった。また、独立戦争が終わってからギリシャにやってきた、ヨーロッパ化されたギリシャ人が重用される傾向があった。

 独立戦争を戦ったギリシャ人たちはこの状況に不満を持ち、1843年9月3日の無血クーデターで、王に憲法発布を認めさせる。そして、1844年3月実際に憲法は発布されるのだが、王に与えられた権威が強大であったことと、外国から持ち込まれた二院議会制度がうまく機能しなかったことのため、政治はかえって混乱する。ギリシャ国民の間には、ギリシャ人の住む地域をギリシャに組み入れようとする領土的野心が生まれ、国王オットーは「メガリ・エダラ(大ギリシャ)」というコンセプト打ち出して、国民の人気を集めようとした。しかし、ギリシャの野心はイギリス、フランスといった列強に抑えられ、国王に対する批判は高まった。1862年10月、オットーと女王アマリアがペロポネソスを訪れている間にアテネでクーデターが起き、オットーはギリシャを追われた。オットーは、その七年後にバイエルンで死去した。ギリシャ人は後継者としてヴィクトリア英女王の次男アルフレッドを国王とすることを望むが、イギリスイガの列強が承知せず、結局、1863年7月のロンドン条約で、デンマークの王家出身のゲオルギオス一世(Christian William Ferdinand Adolphus George von Holstein-Sonderborg-Glücksburg)を新たなギリシャ王となることが決まった。

 独立当初のギリシャは、今日のギリシャよりもずっと小さく、現代ギリシャの北部、東エーゲ海の島々、ドデカネソス、クレタ、イオニア海の島々はまだギリシャの一部ではなかった。ギリシャ人の不満を抑えようと、イギリスは1864年3月の条約で、1815年以来保護領にしていたイオニア海の島々をギリシャに与えた。1866年にはクレタがオスマントルコに対する反乱を起こす。1869年には鎮圧されるが、トルコ政府の譲歩により、クレタのキリスト教徒は島の政治により広範にかかわることができるようになった。

 同じ年、ギリシャに新たな憲法が発布される。これは、1844年の憲法よりもより民主的なもので、王の権力は制限されていた。しかし、ギリシャの選挙は常に汚職、縁故、個人の利益に強く影響され、議会民主制はなかなかうまく機能しないままだった。1880年代には、ほぼ二大政党制が成立し、ギリシャの内政は安定に向かう。これらの二大政党はそれぞれ、ギリシャが領土拡大を拡大するためには、政治的・経済的な近代化が必要であると考えるハリラオス・トリクピス(1832−96年)と、ギリシャが領土を拡大すれば問題は全て解決すると考えるテオドロス・デリヤンニス(1932−1905年)が指揮していた。

 1877年4月、ロシアがトルコに宣戦布告する(露土戦争)。ギリシャは、ギリシャ北部のトルコ領を占領しようとテッサリアとマケドニアに軍を送る。しかし、露土戦争の結果結ばれたサン・ステファノの条約(1878年3月3日)では、マケドニアがブルガリアに与えられることになった。これに対してはギリシャだけではなく、スラブ人国家ブルガリアの影響力がバルカン半島で強大になりすぎることを恐れたイギリスや、バルカン半島における勢力伸張を計画していたオーストリアが反発し、次の年行われた(1878年6月から7月)ベルリン会議では、ブルガリアの領土が大幅に縮小された。他方、1878年6月のキプロス協定では、イギリスがキプロスの行政を担い、収入の余りをトルコに支払うという決定がなされた。また、1881年には列強からの圧力により、トルコは、テッサリアとエピロスのアルタ周辺をギリシャに割譲することになった。

 独立以降、ギリシャの債務問題はなかなか解決せず、財政は逼迫したままだった。1887年には国家財政の40%を債務の返済に充てなければならないほどになっていた。、1893年ギリシャは事実上財政破綻し、1890年から1914年の間にギリシャの全人口の六分の一ほどがアメリカやオーストラリアへと移住していった。

 1895年、クレタがトルコに対して反乱を起こす。デリヤンニス首相は、一旦は支持しないことを決めたものの、国民からの要求と国王ゲオルギオスの勧めに応じ、1897年3月に派兵する。次の月には、ギリシャとトルコの対立がテッサリアに飛び火し、ギリシャ軍はここで敗北を喫する。これがいわゆる「三十日戦争」である。列強の介入によってギリシャのトルコに対する譲歩は最小限に食い止められ、クレタは広範な自治権を獲得するが、ギリシャは、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア=ハンガリー、イタリアからなる国際財務管理委員会から、対外債務の管理を受けることを受け入れねばならなくなった。

第一次世界大戦までの歴史に続く


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