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ギリシャの歴史

10 独立戦争時代


 トルコに対する反乱を最初に主導したのは、1814年オデッサで結成された秘密組織、フィリキ・エテリア(友愛結社)であった。結成を主導したのは、エマヌエル・クサントス (Emmanuel Xanthos)、ニコラス・スクファス (Nikolaos Skouphas)、アタナシオス・ツァカロフ(Athanasios Tsakaloff)という、あまり重要ではない人物で、著名なギリシャ人をリーダーとして担ぎだす必要があった。最初、コルフ出身で、ロシア皇帝アレクサンダー一世の外務大臣であったヨハンニス・カポディストリアス伯爵(1776-1831年)が指導者となることを依頼されるが、彼はこれを拒絶。はやりロシアに使えていたアレクサンドロス・イプシラディス(1792−1828年)将軍がこれを引き受ける。メンバーの中には、ペトロベイ(ペトロス・ベイ)・マヴロミハリス(Petrobey Mavromichalis)、テオドロス・コロコトロニス(Kolokotronis)、アンティモス・ガズィス(Anthimos Gazis)らがいた。1821年、イプシラディスはモルダヴィアとワァラキアを起点として反乱を起こすが、資金不足で撤退を余儀なくされる。反乱軍は同年六月におきたドラガツァニの戦いで決定的な敗北を喫し、彼はオーストリアで逮捕された。イプシラディスは1828(1827?)年まで牢獄に監禁された後、次の年に死去した。

 1821年、イプシラディスがブカレストに向けて撤退していた頃、ペロポネソスのギリシャ人が、アレオポリス、カラマタ、ヴォツィツァ、カラヴリタなどで反乱を起こす。これらの町で戦闘は起きなかったが、パトラスでは大規模な市街戦に発展する。これが、独立戦争の始まりである。トリポリスでは、同年10月、要塞に立て篭もったトルコ兵がギリシャ人に虐殺された。

 ギリシャ人の反乱に怒ったトルコ政府は、イスタンブールのギリシャ正教会大主教グリゴリオス五世を裁判なしで処刑する。同じ正教国であるロシアはトルコとの国交を断つが、他のヨーロッパ諸国は歩調を合わせなかったため、宣戦布告には至らなかった。1823年の半ばに至るまで、列強は、ギリシャの独立を支持することはなく、中立的な立場にとどまった。

 ギリシャ人はペロポネソス半島のほとんどを勢力下に入れ、臨時政府を組織する。しかし、臨時政府内で各勢力の対立が激しく、軍司令官の一人であったオディセウス・アンドルツォスなどは、臨時政府から送られてきた代表を殺害するほどであった。

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 1822年、スルタン・マームード二世は、マームド・パシャ、通称ドラマリに20,000人ほどの兵をつけて、ペロポネソスに派遣する。ドラマリはテーベを略奪した後、コリントを奪取、さらにもう一つの要塞都市アルゴスをも手に入れるが、そこで補給の問題に直面し、コリントスに撤退する途中のデルヴァナキア(Dhervenákia)で、コロコトロニス、パパフレッサス、ニキタス、ディミトリオス・イプシラディス(アレクサンドロスの弟)率いるギリシャ軍の不意打ちに合い、壊滅的な打撃を受ける。ドラマリは逃げおおせるが、1822年の末、コリントスで病死した。同じ年、ギリシャ軍はアテネとナフプリオを奪取するが、ヒオス島は失い、島民はトルコ軍に虐殺・略奪された。

 1823年、有名なイギリスの詩人バイロン卿(George Gordon Noel Byron)が独立戦争に参加するため、ギリシャにやってくる。彼は1824年にメソロンギで病死するまでほとんど何も達成することができなかったが、ヨーロッパにおけるギリシャ独立戦争への関心を高め、義勇軍への参加社は増加した。

 しかし、ギリシャ人の反乱には、全体を指揮する指導者はおらず、反乱軍の中には盗賊と何ら変わりのない私兵部隊もあった。資金不足を補うため、反乱軍はギリシャ人から、略奪に等しい強制徴発を行ったり、兵士を獲得するため強制徴兵を行った。また、トルコ軍の補給を立つため、焦土作戦を何度も実行した。このため、反乱軍は少なからぬギリシャ人から反感を買う。1824年にはギリシャ人同士の間で権力と富をめぐって内乱が起き、トルコからの脅威が迫ってきたことでようやく仲間割れを中断するほど混乱した状態だった。

 1823年まで、トルコはギリシャの反乱に対し有効な手を打てなかった。このため、スルタンは、エジプトのパシャ、メフメト・アリに協力を依頼する。エジプト軍をペロポネソスに派遣し、反乱軍を制圧してくれれば、メフメト・アリにはクレタのパシャリク(太守領)を、メフメト・アリの息子イブラヒム・パシャにモレア(=ペロポネソス)のパシャリクを付与するという合意がなされる。エジプト軍は1824年の4月までに、クレタの反乱を鎮圧した。イブラヒム・パシャは1825年の2月、ペロポネソス半島の要塞メトニ(Methóni、またはメドン)に奇襲をかけて奪取し、次いでコロニ(Koróni)、パリオ・ナヴァリーノ(Old Navarino)とナヴァリーノ(New Navarino)を合わせ、ペロポネソスの主要な四要塞を手に入れた。同じ年の終わりまでに、ナフプリオとモネンヴァシアを除くペロポネソスの主要な都市、カラマタ、アルゴス、ミストラ、ガストウゥニなどは全て占領されるか、略奪を受けるかした。

 1925年の間、イブラヒム・パシャはペロポネソスの各地で勝利を挙げる。メソロンギではトルコ軍による攻撃が続き、サロナの町は5月にトルコ軍に陥落、11月には放棄される。ギリシャ政府と仲たがいして、トルコ人側に組していたオディッセウス・アンドルツォスは、1825年4月、アテネに戻ってくるが、彼の元副官で、アテネ防衛軍の隊長となっていたグーラスにより拷問を受けた末、暗殺される。

 1822年11月トルコのオメル・ヴリオニスが包囲戦を始めたメソロンギも、1826年ついにレシッド・パシャとイブラヒム・パシャの手に落ちる。ドラクロワの「メソロンギの廃墟にたたずむギリシャ」は、この時のことを題材に描かれたもの。また、1927年のパリ・サロンには21点ものギリシャをテーマとした作品が展示され、中立を標榜する列強に対する批判が高まった。

1826年の夏、コロコトロニスを中心としたギリシャ臨時政府は、ギリシャの独立に好意的だったイギリス人、サー・リチャード・チャーチ(Sir Richard Church)将軍をギリシャ陸軍の最高司令官に任命し、チャーチは1827年3月初めにギリシャに到着する。また、ロンドンの投資会社に雇われていたイギリス人、ロード・コクレーンも、その一週間後にギリシャに到着する。二人のイギリス人は、互いに対立するギリシャ人が和解することを求めたため、ギリシャ人たちは1827年3月31日にTrizíniという場所で会議を開いて、協力を約束する。トリジニ会議はまた、カポディストリアスにギリシャの初代大統領職を与えることを決議した。彼は1822年の8月にロシア皇帝アレクサンデル一世の外務大臣職を辞任し、ジュネーヴで暮らしていた。指名を受けたカポディストリアスはヨーロッパ諸国を回って外交活動を行い、イギリス、ロシア、フランスからギリシャ大統領として承認されることに成功した。

 1826年2月、ロシアの新皇帝ニコライ二世がオスマントルコに最後通牒を突きつける。対立の焦点はギリシャではなくモルダヴィアとワラキアであったが、同じ年の末にロシアが宣戦布告に踏み切ったことは、ギリシャ独立にとって有利に働いた。

 メソロンギを落としたレシッド・パシャは、1826年6月の末までにアテネに到着、八月の半ばまでに、アクロポリスを除くアテネ全域を掌握する。1828年5月、チャーチ、コクレーン、カライスカキスらはアクロポリスを解放すべく、ファリロから攻め込むが、作戦は失敗、1500人もの兵を失った。同じ年の6月5日、ギリシャ人の籠城軍は、アクロポリスをレシッド・パシャに引き渡した。

 1827年7月6日、イギリス、ロシア、フランスの間でギリシャ問題に関するロンドン条約が結ばれる。この条約では、1)ギリシャはトルコに税を払い続ける代わりに、一定の自治権を獲得する、2)参加国はギリシャと通商条約を結んで、事実上ギリシャ独立を承認する、3)一ヶ月以内にギリシャかトルコが停戦を受け入れない場合には、列強が介入することが公約・密約された。一方、同じ年の夏、エジプトのメフメト・アリは、フランスで建造させた最新鋭の船を含む60隻ほどの軍艦をギリシャにむけて派遣する。同年9月、エジプト=トルコ艦隊はナヴァリーノに入港する。列強とイブラヒム・パシャが交渉を行う間も、ギリシャ人は戦闘を続けたため、イブラヒムはパトラスで反撃を試みる。このため、列強の艦隊は、ナヴァリーノからエジプト=トルコ艦隊を追い出そうとし、10月20日、ナヴァリーノの海戦が始まる。列強艦隊は数では劣勢だったものの、より優れた装備を誇っていたため圧勝。四時間ほどの戦いで、エジプト=トルコ艦隊は、89の軍艦のうち60隻を失い、6000人もの兵士を失った(列強側の死者は174人)。この戦いの結果、アテネの陥落でほとんど失敗したかに見えたギリシャ独立は、決定的なものとなった。

 1828年1月、ヨーロッパでの外交活動を終えたカポディストリアスがナフプリオに到着する。臨時政府が置かれていたエギナで、カポディストリアスは臨時全権を与えられ、大統領が直接指名した27人の人物からなるパンヘレニオンという委員会を組織する。彼は4月に国民議会を召集すると約束したが、これをなかなか実行しなかったため、不満が高まった。また、彼はトルコ人から接収し、国家財産となっていた土地を無産農民に与える計画を立てていたが、軍の指導者や地方の有力者もその土地を占有しようとしたため、両者の間で対立が激しくなった。

 ナヴァリーノの戦いの後も、イブラヒム・パシャ率いるトルコ=エジプト軍は、ネオ・ナヴァリーノ、メトニ、コロニ、パトラスにしばらくの間留まったが、1828年10月にイブラヒムが立ち去った後、要塞の兵士もフランス軍に投降して、ペロポネソスでの戦争は終結した。コリント湾より北ではまだ戦いが続く間、1828年9月、英仏露の代表がポロス島に集まって、ギリシャ国境の策定を会議する。12月にまとめられたレポートでは、ヴォーロスからアルタを結ぶ線を北側の国境にし、エヴィア、クレタ、サモスをギリシャに含めるというものだった。トルコは最初、交渉のテーブルに就くことを拒否していたが、ロシアとの戦局が悪化して、アドリアノープルを失うと、1829年9月の「アドリアノープル講和条約」で、事実上ギリシャ独立を承認した。しかし、国境問題ではなかなか折り合いがつかないままだった。

 1831年10月9日、ギリシャ初代大統領カポディストリアスは、戦時の補償と収税上の特権を拒否されたことを逆恨みした、ペロポネソス半島のマニの有力者、マヴロミハリス家のコスタンティノスとゲオルゴスによってナフプリオで暗殺される。コスタンティノスはその場で殺害され、ヨルゴスは軍事法廷で裁判にかけられた後、二週間後に処刑された。

 1832年、エジプトのメフメト・アリが、現在イスラエルの場所にあるアクレの町を占領し、イスタンブールを攻撃する意図を明らかにする。これを恐れたトルコは、7月21日、イギリスがトルコを守ることを条件にして、ギリシャの領土問題で妥協する。北ギリシャの国境はアルタ=ヴォーロスの線となったが、クレタとサモスはトルコ領に留まった。(現代ギリシャの北部、東エーゲ海の島々、ドデカネソス、クレタ、イオニア海の島々はまだギリシャの一部ではなかった)。ギリシャの王を誰にするかという問題もこの年に解決する。バイエルンのルードヴィヒ一世王は古代ギリシャの愛好家で、息子オットーをギリシャ王位に就けることを強く望んでいた。ロンドン会議は5月に、ギリシャ王位をオットーに提示し、オットーはこれを7月に受け入れた。そして、ギリシャの国民議会はこれを事後承諾した。


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