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ギリシャの歴史

4 ヘレニズム時代


アレクサンダー大王 前338年夏、ギリシャはカイロネイアの戦いでマケドニア王フィリッポス二世に敗れ、マケドニアの支配下に入る。フィリッポスが前336年に暗殺された後は、アレクサンダー大王が王位を継承し、前335年夏には、反乱を起こしたテーベを破壊する。その後は、すぐにペルシャとの戦争に向かい、帰国途中の前323年に死去するので、ほとんどギリシャには滞在していない。アレクサンドロスの遠征中である前331年、アギス王の指導の下、スパルタはマケドニアに対して反乱を起こすが、330年の春、メガポリス(アルカディア)の戦いでアレクサンダーの代官アンティパテルに敗北した。アレクサンドロス大王の死(323年6月)後である前322年にギリシャ諸都市がマケドニアに対して仕掛けたラミアの戦いでも、マケドニアの支配は揺るがなかった。

 アレクサンダーが死去すると、彼の将軍たちはバビュロンに集まって、後継者の選定に入る。その結果、アレクサンダーの異母兄弟フィリッポス・アリダイオスと、アレクサンダーとイラン人の妻ロクサネの間の息子(やはり、アレクサンダーという名前)が共同統治をすることになる。しかし、フィリッポスは気が弱く、アレクサンダーは乳児であったため、ペルディッカスが摂政となるなる。そして、マケドニアとヨーロッパはアンティパテルと娘婿のクラテロスが、エジプトはプトレマイオスが、トラキアはリュシマコスが、ヘレスポントス側フリギュアはレオナトスが支配することになった。

 しかし間もなく、将軍たちはより大きな支配権の獲得、もしくは自分の支配領域の保全のため、互いに争いを始める(ディアドコイ戦争)。まず、最も有力だったペルディッカスが、プトレマイオスに敗れて、自分の将軍に殺害される(そのうちの一人がシリアの支配者となるセレウコス)。また、アレクサンダーの秘書だったエウメネスが、小アジアでクラテロスと戦って、彼を殺害する。しかし、アンティパテルは、ペルディッカスが持っていた摂政の地位を継承し、小アジアの支配をアンティゴノス・モノフタルモスに委ねた。後に、アレクサンドロスの親戚だったピュロス王が、エピロスを本拠地として王国を築いた。

 マケドニアの支配は、アンティパテルの息子カッサンドロスと摂政のポリュペルコンに継承されたが、二人は間もなく対立し、315年、カッサンドロスが、ポリュペルコンと同盟を結んでいたアレクサンダー大王の母オリュンピアスに勝利して、マケドニアの支配権を握った。ポリュペルコンとその息子のアレクサンダーは、ペロポネソスに逃れ、その一部を支配した。カッサンドロスは、アレクサンダー大王の幼い息子アレクサンダーの後見となるとともに、フィリッポス二世の娘で、アレクサンダー大王の異母姉妹テッサロニケと結婚した。カッサンドロスは、また、テッサリアのテーベを再建した。

 308年、エジプトのプトレマイオス一世はギリシャを攻撃、アンドロス島とメガラを占拠する。307年には、アンティゴノスの息子デメトリオス(・ポリオルケテス)がメガラとアテネを奪取した。デメトリオスは、一度アテネから追われた後、295年に再び戻って来て、カッサンドロスの息子たちの間に起きた内紛に乗じてマケドニアを支配下に入れる。293年には、テッサリアのペガサイ湾沿いに新都市デメトリアスを建設し、ギリシャにおけるアンティゴノス朝の支配拠点となった。294年にはボイオティアもデメトリウスの支配下に入った。

 前279年、ケルト人がバルカン半島を下ってギリシャに攻め寄せる。ボルギオス率いる一団は、前年からマケドニアに君臨していたプトレマイオス・ケラウノスを殺害した。アイトリア人、ボイオティア人、フォキス人、ロクリス人、メガラ市、パトラス市は同盟を結んで、ケルト人の来襲を防いだ。この勝利を神々に感謝するため、デルフィでソテリア祭が創始された。

 前239年かその翌年、アイトリア人とアカイア人が同盟を組んで、アンティゴノス・ゴナタスの死後、王位を継承した息子デメトリオス二世と戦う。これは「デメトリオス戦争」と呼ばれる。アテネは王の側についたが、メガラ、トロイゼン、エピダウロス、メガロポリスは同盟側についた。229年にデメトリオスが死んで、マケドニアが不安定になった際には、アイトリア人がテッサリアをマケドニアから奪ったが、アンティゴノス・ドソン(ゴナタスの甥)が、ディミトリオスの未亡人と結婚して、フィリッポスの後見者となると、テッサリアをアイトリア人から奪回して、228年には、アイトリアと同盟していたドリス地方を攻撃した。前224年、アンティゴノス・ドソンは、ボイオティア連盟、アカイア連盟、テッサリア、エピロス、アカルナニア、フォキス、ロクリス、エウボイアとマケドニアをまとめる「ギリシャ連盟」を形成した。

 前232年頃エピロスは、ピュロス王朝に替わり、連邦制をとるエピロス連合が支配するようになった。前三世紀、アイトリア連合とアカイア連合が勢力を伸ばす。アイトリア連合の首都テルモンは繁栄し、アカイア連合は、アラトス(前213年死去)とフィロポイメン(前182年死去)の指導の下、ペロポネソス半島全域を覆い、前195年にはスパルタも加盟した。

前三世紀終盤の数十年間は、ギリシャの全土で戦いが続いた。前228年から222年、スパルタのクレオメネス三世がアカイア同盟と、そして、224年以降は、アカイアと同盟関係にあったマケドニア(アンティゴノス三世ドソン)と「ギリシャ同盟」と戦った。クレオメネスはセラシアの戦いでマケドニアに破れ、ギリシャにおけるマケドニアの勢力が増した。そして、220年から217年にかけては、アカイアとアイトリアの対立をきっかけに、マケドニアとその同盟市がフィリッポス五世王指揮の下、アイトリア同盟と戦った。前212年から205年には、マケドニアとその同盟市が、アイトリア同盟とローマに対して戦った(第一次マケドニア戦争)。ハンニバル戦争にローマが手を取られている間に、フィリッポス五世がイリュリアをローマから奪おうとしたことがきっかけである。211/0年、ペルガモンのアッタロス一世、エリス、メッセネ、スパルタはローマに組して、マケドニアと戦った。

 211/0年、アイトリアと同盟関係にあったローマのプロコンスル、スルピキウス・ガルバが、エギナ等を略奪して、アイトリアに引渡し、さらにアイトリアがこれをアッタロスに売り渡した。

 第一次マケドニア戦争は、まず、アイトリアがフィリッポス王と講和条約を結び、206年にエピロスのフォエニケでローマとマケドニアが講和条約を結んだことで終結した。

 しかし、200年には再びマケドニアとローマの間で戦争が再発する。198年からは、アカイアもローマ陣営に加わった。198年5月に到着した新コンスル、ティトゥス・フラミニウスは、同じ年、テッサリアのキュノスケファライで、フィリッポスに大勝する。その結果、マケドニアと同盟していたコリント、フォキス、ロクリ、エウボイア、テッサリアを含む、ギリシャのほとんどがマケドニアからの独立と自由を宣言され、フラミニウスの導きで「テッサリア連合」が組織された。196年に結ばれた講和条約で、マケドニアはデメトリアス、カルキス、アクロコリントといったギリシャ支配の拠点となる要塞を失って、ギリシャへの影響力をほとんど失った。この戦争は、第二次マケドニア戦争と呼ばれる。

 しかし、今度は、マケドニアの敗北に伴って行われた領土の再配分に不満を持ったアイトリアとローマの間で対立が激しくなり、192年、アイトリアは、セレウコス朝のアンティオコス三世にギリシャをローマから解放してくれるようにと求める。10月、アンティオコスはこれに応じてギリシャに上陸し、戦争が始まる。191年、ギリシャでの戦争を担当するコンスルはアキリウス・グラブリオとなり、マルクス・ポルキウス・カトー(cos. 195)が彼の軍指揮官となった。ローマ軍はエピロスに上陸し、191年の春にはテルモピライの戦いで、アンティオコスとアイトリア人に勝利を挙げた。190年の春には、アイトリアの都市アンフィッサを包囲する。ルキウス・スキピオが、グラブリオからコンスル位を引き継ぐため到着すると、アイトリアと休戦条約を結び、アンティオコスとの戦いに向かう。ルキウスとプブリウスのスキピオ兄弟は、189年、小アジアのマグネシアでアンティオコスを降し、この戦争に終止符を打った。

 マケドニアのフィリッポス五世は179年に死去し、息子のペルセウスが跡を継いだ。前171年、ローマとマケドニアの対立は再燃する(第三次マケドニア戦争)。前168年六月、ピュドナの戦いで、ペルセウス王はローマのコンスル、ルキウス・アエミリウス・パウッルスに敗北して王朝は滅んだ。マケドニアを支持したエピロスのモロッシ人もローマから報復を受けて、すべての財産を奪われた上、15万人もの人が捕虜として連れ去られた。アイトリア連合は、ローマとマケドニアの戦いでローマ側についたが、やがてローマと対立するようになり、前189年の戦いで敗北した。アカイア連合も、やはり当初はローマと同盟を結んでいたのだが、前146年に敗北して、コリントはローマ軍によって破壊された。

 ヘレニズム時代には、アイトリア、エピロス、アカルナニアといった北部ギリシャで都市化が進み、カソペ、ストラトス、プレウロンといった都市が繁栄した。


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