Gate to Greece: http://www.mesogeia.net

ギリシャの歴史

2 アーカイック期


幾何学文様時代

 ギリシャの前1050年から700年頃を指して、「幾何学文様時代」と呼ぶ。これは、陶器に幾何学模様が描かれていることから来る名称。

 青銅器時代のミケーネ文明がドーリア人によって破壊された後(但し、ドーリア人の侵略と破壊という説には、今日異論もある)、ギリシャはいわゆる「暗黒時代」に突入する。この時代には、外の世界との接触がほとんど見られない。「サブ・ミュケーネ期」と呼ばれる前1100年から1050年頃に作られた陶器は質素で、フリーハンドで円や半円形が描かれている。

 しかし、アテナイとエウボイアだけはドーリア人に屈しなかったらしい。この時期、アテネはエーゲ海の島々や小アジアのエーゲ海岸に植民者を送り出し、植民市を建設したといわれる。また、アテネは、前1025年から900年まで作られる「プロトジオメトリック(原幾何学文様)」陶器を生み出した。「サブ・ミュケーネ期」の陶器と違い、この陶器には各種の道具を使った、手の込んだ装飾が施されている。また、エウボイアのレフカンダ遺跡(前十一〜九世紀)からは、東方との接触を持った、鉄器文明を持つ共同体の跡が見つかっている。

 十世紀には「シュノイキスモス」「シュノイキシス」と呼ばれるプロセスが始まる。これは、いくつかの村・町が合わさって、一つの都市をつくったり、いくつかの共同体が同盟を結んで一つの共同体となったり、一つの中心的な都市によって周辺の村や都市が併合されたりする、さまざまな形の「統一」プロセスのことである。さらに、前850年から750年にかけては都市化が進み、「都市国家」が形成されてゆく。特に顕著なのが、アテナイとコリントである。

 前八世紀頃から海上交易が復活し、フェニキアからアルファベットが導入される。線文字Bは暗黒時代の間に失われたので、ギリシャは数百年ぶりに文字文化に戻ったことになる。ボイオティアのヘシオドス、イオニアのホメロスは前八世紀末の人物である。前900年から700年には、アテナイ、アルゴス、コリントスナクソス、メロスなどギリシャ各地で、幾何学文様が施された陶器が生産された。伝承によれば、オリンピアで最初に競技の祭典が開かれたのは前776年のこと。のギリシャで産業が復活し、生活が安定してくると、人口が増加し始め、移民、植民、都市の増加が見られるようになる。南イタリアやシチリアにギリシャ植民市が建設され、「マグナ・グラエキア」が形成され始めたのはこの時代のことである。

アーカイック時代

 アーカイック時代という名称は、ギリシャの場合前七世紀頃から前480年までを指して使われることが多い。

 この時代には、広く信仰を集める神々の聖域が現れる。デルフィのアポッロの聖域、オリンピアのゼウスの聖域、アルゴスのヘラ神殿やエレトリアのアポッロ・ダフネフォロスの聖域がその例である。

 また、この時代には「僭主」と呼ばれる、強大な権力を持った新たな支配者が多く出現する。彼らは各都市で大きな土木工事・建築事業を行うとともに、デルフィオリンピアに大きな奉献物を残している。

 前六世紀の終わり頃には、スパルタがペロポネソス半島全域に勢力を及ぼす強大な都市国家として頭角を現してくる。

 六世紀には、陶器に黒絵と赤絵の技法が用いられるようになったことで、細密な描写が可能になった。アテネとコリントスが、ギリシャ陶器の代表的な産地であった。

ペルシャ戦争

前499年から494年、小アジア東岸にあるイオニア植民市がペルシャ帝国に反乱を起こした際、ギリシャのいくつかの都市が植民市に肩入れしたことをきっかけに第一次ペルシャ戦争が始まる。しかし、前490年、ペルシャ軍はマラトンの戦いでギリシャ軍に敗北する。その九年後、ペルシャのクセルクセス大王自身が軍を率いてギリシャに攻め寄せる。ギリシャ軍は、前480年のサラミスの海戦と、前479年のプラタイアの戦いで勝利を挙げ、ペルシャ軍を撃退した。その後は、ペルシャとの戦いで、指導的な役割を果たしたアテナイとスパルタがギリシャの覇権を奪い合うことになる。

ギリシャ史トップページ戻る

copyright notice