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アテネの歴史

9 オスマントルコ時代


 1458年、ペロポネソスへの遠征を終えたメフメト二世は、アテネに立ち寄り、ケサリアニ修道院長から、アテネ市の鍵を受け取る。アテネ大主教は既にアテネを後にしていた。


 メフメト二世は、キリスト教徒に対して寛容で、コンスタンティノポリスを制圧した時にも、大主教座が空位であるのを知って、修道士ゲンナディオスを選んだ。ゲンナディオスは、ローマ・カトリック教会の主張に対して妥協するよりは、異教徒であるイスラム教徒の支配下でオーソドックスの信仰を守ることを主張していたので、オスマントルコの支配にとって都合がよかった。メフメト二世は、ビザンツ皇帝がやったの同様、自身の手でゲンナディオスに司牧杖を渡す儀式を行った。

 アテネは、アッティカ・ボイオティア・エウボイアの「サンジャック(オスマントルコで使われた行政単位」)の一部となった。

 1464年ヴェネツィアがアテネを攻撃する。

 オスマントルコ支配下のアテネに関する西欧人の記述は少ない。西欧人がそこを訪れる機会自体が減ってしまったことにもよる。
 1582年にアテネを訪れたコーニヒスバーグのラインホルト・ルベナウによれば、アテネはかなり大きな都市で、トルコ人、ギリシャ人、イタリア人が入り混じって住んでいた1。当時の人口は、17,000人ほどであったといわれる。1674年、フランスのトルコ大使ノワンテル(Nointel)侯爵がアテネを訪れた際、彼に従っていた画家ジャック・カレイ(Jacques Carrey)がパルテノンにあった彫刻をスケッチする機会に恵まれた。スポンとウィーラーがアクロポリスを訪れたのも同じ頃である。

1667年にアテネを訪れたトルコ人、Evliya Celebiによれば、キフィシアは小さな村で、住民の半分がトルコ人、半分がキリスト教徒だった。家が300件ほどあり、モスクが二つ、神学校が一つ、礼拝堂が一つ、浴場が一つ、宿屋が一つ、商店が十軒という構成だった。

 アクロポリスは、トルコ軍の要塞となり、トルコ軍と司令官と兵士が家族を伴って暮らしていた。プロピュライアは、トルコ軍事総督の邸宅として使われていたが、1666年の聖デメトリオスの祝日、ここに雷が落ちて、貯蔵されていた火薬が爆発、建物は大きな被害を受けた。
 他方、ローマ時代のアゴラにある「風神の塔」は1700年ごろからダーヴィッシュの修道院として使われていた。


ヴェネツィアの来襲

 1686年、ヴェネツィア、ローマ、アウストリア、ポーランドの神聖同盟がオスマントルコに宣戦、1687年、ヴェネツィアのフランチェスコ・モロシーニ率いる同盟軍がアテネを攻撃する。トルコ人は、アクロポリスに籠城した。トルコ軍は、まさかキリスト教徒が元教会だった建物を攻撃することはあるまいと、パルテノンに武器弾薬を貯蔵していた。しかしモロシーニは、9月24日、アクロポリスを砲撃することを命じ、そのうちの一発がパルテノンに落下、貯蔵されていた火薬に引火して爆発し、パルテノンは二日間燃え続けた。この爆発と火事で、パルテノンは大きく破壊されてしまった。砲台の近くにあったプロピュライアもやはり爆撃で被害を受けた。

 これに次いで、トルコ軍は降伏し、アテネを立ち去った。アテネに入った神聖同盟軍は、モスクに転用されていた教会を、再びキリスト教会に戻す。大多数はカトリック教会となったが、ドイツ人、スイス人のために、ルター派の教会も一つ確保された。1687年にアテネ大司教であったヤコブ一世は、トルコ人嫌いであったため、他のギリシャ人代表と共に、ピラエウスでモロシーニを歓迎した。

 しかし、兵士の数が十分でなかったこと、そして1687/8年の冬にペストが発生したこともあって、モロシーニはアテネを放棄することを決める。ギリシャ系の住民は、モロシーニに翻意を促すが、受け入れられず、対案として、ペロポネソス半島のヴェネツィア支配域への移住を勧められる。撤退は1688年の初めに始まり、4月8日までには完了した。ギリシャ系の住民は、軍に守られて、ペロポネソスの他、ナウプリオン、エギナ、サラミナへと移住した。神聖同盟軍は、アテネが再びトルコの要塞として用いられることを恐れて、防衛施設を破壊していった。

 撤退の際モロシーニは、パルテノン神殿の装飾していたポセイドン像と、レリーフ二枚をヴェネツィアに持ち帰ろうとしたが、うまく取り外すことができなかったためあきらめた。その代わり、ピラエウスにあったものを含む、三体のライオン像をヴェネツィアに持ち帰った。これらは現在、ヴェネツィアのアルセナーレ前に飾られている。モロシーニに同行していた軍人も、この時様々なものをアテネから持ち去ったと考えられている。

ヴェネツィア戦争以降の荒廃と復興

 1688年以降三年の間、アテネは荒れるままになっていたが、1691年、スルタン、スレイマン二世が恩赦を宣言し、定められた期限のうちにアテネに帰ってきたギリシャ系住民には財産の回復と三年間の税免除が認められた。これに応じた多くのギリシャ系住民が戻ってきたが、移住先に残った者も少なくなく、また、ギリシャ系住民からの攻撃を恐れたトルコ人も帰還をためらった。このため、アテネはある程度まで人口を回復したものの、ヴェネツィアの攻撃以前の状態には戻らなかった。十六世紀の終盤には17,000人程度だった人口は、10,000人ほどになったと推定されている。

 キリスト教徒には、武器の携帯、騎馬、イスラム教徒の隣人の家よりも高さの高い家を立てること、教会の鐘を鳴らすことが禁じられていた。また、特別な許可なしには、教会を建築したり、修理したりすることも出来なかった。キリスト教徒には、トルコ風の装束を着ることが禁じられていたので、一見するだけで区別がついた。

 アテネのギリシャ系住民は、自治機関である参事会をもっていた。そのメンバーは、有力なギリシャ人家族の中から選ばれ、任期は終身だった。この参事会は大司教に助言をしたり、イスラム法の問題に巻き込まれたキリスト教市民を助けたりした。しかし、イスラム教徒とキリスト教徒の間の訴訟は、トルコ人の裁判官によって裁かれた。

 キリスト教徒は、イスラム教徒よりも高い税を払わねばならず、兵役には就けなかった。また、オットマン帝国初期には、キリスト教徒の男の赤ん坊五人に一人を、政府に差し出さなければならなかった。こうした赤ん坊は、イスラム教徒として育てられ、政府の文官職に就くか、スルタンの親衛隊イエニチェーリとなった。この制度は、17世紀の初めまで続いた。

 1645年アテネは、スルタンのハーレム直属となり、黒人宦官の長官の庇護下に入った。このことにより、アテネは宦官長官から特別な配慮を受け、下級官僚の搾取を受けることが少なくなった。そのおかげで、例えば、アテネ人が裁判で不当な判決を受けた場合、総督を飛び越して、宦官長官に上訴することができるようになった。
 なぜ、このような措置がとられたのかは明らかではないが、一説によれば、当時のスルタン、イブラヒム一世が寵愛していたアテネ出身の女奴隷バシリキの影響だという。

 1760年、アテネはmalikhaneと呼ばれる、スルタン直属領となった。マリクハネはその利用権を競売にかけられ、買った者は利用権だけではなく、住民に対する司法権を行使した。1772年にアテネのマリクハネを買い取ったハジ・アリ・ハセキはその横暴で歴史に名を残している。アブドゥル・ハミド一世の親衛隊だった彼は、3年間アテネのマリクハネ・シャヒブ(マリクハネ利用権所有者のこと)だったあとアテネのヴォイヴォデに任命され、17年間その職にあったが、彼がアテネを支配したこの期間はアテネが最も過酷な暴政を経験した時だった。

 アリ・ハセキがアテネの支配者だった1778年にはムスリム教徒のアルバニア人がアテネを略奪した。このようなことが起きるのを避けるため、彼は、アテネの市民を強制徴発して「セルペンゼス」と呼ばれる10キロに渡る市壁を建造させたに留まらず、その代償に高額の代金をアテネ市民に支払わせた。

 合計20年に渡る暴政の後、スルタン、セリム三世はアリ・ハセキを召還してヒオス島に追放、三年後に断頭刑に処させた。

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