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アテネの歴史

8 十字軍時代


ブルグンド時代

 1204年、第四次十字軍の一部がギリシャに向かい、アテネに現れる。1205年、無力であったアテネ大主教見はエリス・ホニアテスは市を十字軍に明け渡す。大主教はケア島に避難し、十五年ほど後この地で死去する。アテネ、テーベ(ティーヴァ)、メガラ周辺の支配権は、ブルゴーニュの貴族オトン・デ・ラ・ロシュ(Othon de la Roche)に与えられ、男爵領となる。その数年後、アクロコリントに立て篭もっていたレオン・スグーロスが自殺に追いやられると、スグーロルスの支配していたアルゴスとナウパクトスもオトンに与えられた。彼は二十年ほどこの場所を支配した後、妻と二人の息子を連れてブルゴーニュに帰り、アテネの支配は甥のギュイに委ねた。
 新たな支配者はカトリック教会の聖職者を呼び寄せ、アテネの大司教にはフランスからやってきたベラールという人物が叙階された。アテネ大司教の下には十一人の司教が叙階され、テーベもまた大司教座となった。またダフニ修道院はシトー会に付与された。
 1260年には、フランス王ルイ九世によってアテネ・テーベ大公領に格上げされた。ギュイの跡を継いだ息子のジャンは、1276年、ビザンツ皇帝ミハイリス八世パレオロゴスの娘を娶らないかという申し出を拒絶した。ビザンツ皇帝にギリシャ回復の口実を与えないためであろう。ジャンの息子で後継者のギヨームは、ネオパクトスを支配するヨハンネス・ドゥカスの娘と結婚して、グラヴィア、ラミア、リヴァディアを婚資として獲得たため、大公領はギリシャ本土の広い地域を覆うようになった。

カタラン時代

 1311年、アテネ大公とその同盟軍がハルミュロス(Halmyros)近くで起きたキフィソス(Kifisos, Kephissos)の戦い(コパイスKopaisの戦い?)でCatalan Grand Companyに破れ、ブルグンドのアテネ大公領は滅亡する。Catalan Grand Companyとは、1302年、テンプル騎士であったロジェ・ド・フロルによって組織されたカタラン人を中心とする傭兵集団。その勇猛さと共に、略奪行為でも有名だった。もともとは、ビザンツ皇帝アンドロニコス二世のためトルコ人と戦っていたが、各地で掠奪を働いてビザンツ人の不信を買ったため、アンドロニコスから解雇され、海賊化していた。1310年、アテネ大公ヴァルター・ドゥ・ブリエンヌ(Walter de Brienne)五世は彼らを雇い入れるが、約束していた報酬を与えなかったため争いとなり、結局破れてしまった。
 カタラン人たちは、名目上アラゴン王家の出身の大公の指揮下にあった。彼らはネオ・パトラスを支配下に入れると共に、ダウリスDaulis(ラ・ダブリアLa Dablia)市とラヴァディアLavadhia市を建設した。1326年からは「アテネとネオパトラス公領」と呼ばれた。
 カタラン人たちは、支配の拠点としてネオパトラスやテーベの方を重視したため、アテネは無防備なまま放置された。

フィレンツェ時代

 カタラン人は、その後80年近くアテネを支配するが、1385年、ネリオ・アッチャイウォーリ率いるフィレンツェ軍にアテネを奪われ、1388年にはアテネのアクロポリス、1390年にはテーベとネオパトラスも失った。アッチャイウォーリ家はモレア地方の支配者で、1371年、ネリオは従兄弟のアンジェロからコリント君主の称号を獲得していた。
 フィレンツェのアテネ大公は、ギリシャ語を公用語とし、ギリシャ人の一部に市民権を与えた。このため、ギリシャ人の中からも財を成し、要職につく人物が現れる。カトリック教徒と正教徒との結婚も認められ、大主教はアテネに帰ることを許された。第二代目のフィレンツェ・アテネ大公アントニオ自身、ギリシャ人の女性と結婚している。フィレンツェ人は大公領の人口を増やすため、アルバニア人移民を迎え入れた。
 1394年にネリオ・アッチャイウォーリが死去する。彼は息子アントニオをテーベとリヴァディアの君主とすることを遺言していたが、アテネは「アテネのサンタ・マリア教会(=パルテノン)」に寄贈し、ヴェネツィアをその執行者に指名する。アントニオはこれを不服としてアテネに攻め込み、1397年にはすでにアテネの居住区を奪回し、1402(もしくは1403)年には、ヴェネツィアをアクロポリスからも追い出した。1435年、アントニオが死去すると、彼の未亡人は、自分の親戚であるアテネ人ギオルゴス・カルココンディラスと自身でアテネとテーベの支配者しようと画策する。しかし、カルココンディラスがアテネを留守にしているうちに、フィレンツェ派の人々は、未亡人をアクロポリスから誘い出し、アントニオの親戚で、後継者に指名されていたネリオ二世を大公の座に据え、アントニオの未亡人と結婚させた。
 フィレンツェ人のアテネ大公領は、アントニオの時代に最盛期を迎えた後、衰退し始める。1451年ネリオ二世が死去すると、ボドニツァ侯爵の娘である未亡人と、幼い息子フランチェスコが継承するが、彼女は愛人でヴェネツィア人のバルトロメオ・コンタリーニ(Bartolomeo Contarini)とともに大公領を支配する。アテネ大公家内で内紛が起きたのをきっかけに、オスマントルコがこれに介入、1456年六月、アテネはオスマントルコのオマル・パシャの手に落ちる。コンスタンティノポリス陥落から三年後のことであった。

 1436年と1444年、イタリア人の商人で古事古物学者でもあるアンコーナのキュリアコス(チリアコ・ダンコーナ)がアテネを訪れている。彼が残した貴重な記録の大部分は、1514年にペーザロの図書館で起きた火災で焼けてしまったが、今でもその一部が残っている。彼はまた、アクロポリスのプロピュライアを改造して造った大公宮を訪れ、その立派さに感嘆している。


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「アテネの歴史」インデックス
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14. 第二次世界大戦以降

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