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リュシクラテスの優勝記念モニュメント
リュシクラテス・モニュメント

<所在地> ギリシャ アッティカ アテネ プラカ地区

 大ディオニュシア祭の少年コーラスで優勝したコレーゴス、リュシクラテスが前335年か334年(ヘレニズム時代初頭)に建造した記念建造物。大ディオニュシア祭りとは、毎年秋分の日頃に行われる祭りで、アッティカの十部族が、五十人の男性コーラス部門と十人の少年コーラス部門に代表を送って、その出来を競い合った。
 コレーゴスというのは、スポンサーの役割を果たす富裕な市民で、部族の中から選出され、アルコンから任命された。勝利したコーラスには鼎(トライポッド)が与えられ、それを飾るためにモニュメントを建造する習慣があった。かつては、ディオニュソス劇場から三脚台通り(アクロポリスの東側と西側を回って、アゴラのエレウシニオンまで続いていた)に沿って、こうしたモニュメントがたくさん立ち並んでいた。

リュシクラテス・モニュメント
 リュシクラテスのモニュメントは保存状態が大変にいいことだけではなく、コリント式柱頭が建造物の外側に用いられている最古の例であることでも、建築史上重要。
 屋根の上に載っているアーカンサスの彫刻は、鼎のための台座であるが、鼎自体は残っていない。
 エンタブラチャーのフリーズには、演劇の神であるディオニュソスを追うティレニア海の海賊が海に投げ込まれ、イルカに姿を変えるさまが描かれている。

リュシクラテス・モニュメント
 アーキトレーヴの東側には「キキュナのリュシクラテス、キュシテイデスの息子、はコレーゴスであった。アカマンティスの部族が少年のコーラスで勝利を挙げた。テオンがフルートを演奏し、アテネのリュシアデスがコーラスを訓練した。エウアイネトスがアルコンであった(前335/4年)」(R. Barber, Athens, p. 94より)という奉献碑文(IG II 2nd ed. 302)が刻まれている。

 四角形の基台部分は、幅と奥行きが三メートル、高さ四メートル。枠の部分がエレウシス(エレフシナ)産の石で、それ以外がペイライウス(ピレアス)産の石でできている。その上にある円形の台三段はヒュメットス産の大理石。その上の筒状の部分は、パネル部分がヒュメットス産大理石であるのを除くと、全てペンテリコン大理石。

リュシクラテス・モニュメント フランス語碑文
 1669年から1821年まで、このモニュメントは、隣接していたカプチン会の修道院の建物に組み込まれ、図書室の一部として用いられた。保存状態がいいのはこのせい。しかし、図書室として転用された際、三枚のパネルが取り去られてしまった(現在は新しい大理石で復元されている)。当時は「ディオゲネスのランタン」という名前で知られていた。修道院は、ギリシャ独立戦争の初期、1821年に火災で消失した。

 パルテノンのフリーズをイギリスに持ち帰ったことで有名なエルギン卿は、このモニュメントも入手しようとしたが、カプチン会が売るのを拒んだため、この場所に残った。1826年、オスマントルコの将軍ヴリオニスがアテネを占領していた時、修道院は焼失してしまったが、リュシクラテス・モニュメント自体は、1892年、フランスからの資金援助で修復された(左の写真はが、その時の修復を記録した碑文)。
リュシクラテス・モニュメント バイロンの滞在
 このカプチン会修道院には、ギリシャの独立戦争に加わった、イギリスの有名な詩人バイロン卿が若いときに滞在したことがある。右の写真は、そのことを記念した碑文で、リュシクラテス・モニュメントの横に立っている。

リュシクラテス・モニュメント リュシクラテス・モニュメント

左上の写真は2002年7月に撮影したもので、モニュメント近くの発掘が行われていたため、古代の地層が見えている。右上の写真は、2005年に撮影したもので、この時にはすっかり埋め立てられていた。


下は、近くで撮影した猫の写真。
リュシクラテス・モニュメント近くの猫

参考文献


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